昭和44年初頭からヒットし最終的には150万枚以上を売り上げ、今でも横浜と言えばこの曲というくらいご当地ソングの代表的な曲である。作詞は橋本淳で作曲はあの筒美京平、彼自身初のオリコンヒットチャート1位の曲でもある。当時電車やバスによく乗っていたいしだあゆみは横須賀線に乗っていたら横浜駅に着いた時、周囲が「何でここで降りないんだ」という目で見られ「ヒット曲の影響の大きさを感じた」とか。最初、この曲をもらった時に彼女はヒットするとか特にどうも感じなかったそうだ。「抑揚がなくて歌いづらいし、まるでお経みたい」と。しかし、私が驚いたのはその後のコメントだった。
「だってこの曲は私にとって26枚目のシングルレコードだったし、それまで鳴かず飛ばずだったから全く期待していなかった」
えーー!26枚目ってそんな、この曲以前にいしだあゆみなんて聞いたこともなかったし私はデビュー曲かとさえ思っていた。レコード会社(ビクター)もそれほど売れてもいないのによくもまあシングルを辛抱強く出し続けたねえ。調べれば16才時の昭和39年4月の「ネェ、聞いてよママ」という曲でデビューし、それまでヒットと言えるのは前年の24曲目の「太陽は泣いている」がオリコン18位になったくらいだ。さらに調べると、日本コロムビアに移籍しここでその「太陽は泣いている」から橋本淳作詞、筒美京平作曲コンビになっている。これが転機だったんだ。このあとも昭和45年のなかにし礼作詞、筒美京平作曲「あなたならどうする」などヒット曲を飛ばし昭和を代表する歌手になった。レコード会社を変え、自分に合った作詞作曲者に巡り会えるかで歌手生命が大きく変わる典型例といえるだろう。
(↓が当時の「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌ういしだあゆみ。冒頭、上目遣いで見つめる男性が若き日の筒美京平、レコード大賞作曲賞者として画面に写っている。その後TVにはほとんど出なかったので実に貴重な映像である。)
https://www.youtube.com/watch?v=ZrLOQAIBXxE
あと「ブルー・ライト・ヨコハマ」に関していえば「禁じられた歌―朝鮮半島音楽百年史 (田月仙著:中公新書ラクレ:2008年)」の中で、1970年代末まで日本の音楽が禁止されていた軍事政権下のソウル、釜山および韓国内で知られたほぼ唯一の歌謡曲であり、「韓国人が最もよく知る日本の歌」とも紹介されている。カラオケが輸入されてからもクラブなどでは、この歌ばかりが歌われていたという。また、朴正𤋮大統領も日本から本楽曲のカセットテープを持ち帰って、宴会で歌ったという。へーえ、知らなかった。海賊版で大衆に拡がっていったとのことで、同じような曲が「恋人よ」(五輪真弓)、「ギンギラギンにさりげなく」(近藤真彦)、「サチコ」(ニック・ニューサー)らしい。以上は韓国の中高年が必ず知ってる日本の歌謡曲とのことである。YouTubeでは韓国のスター俳優の一人チソン(「オールイン 運命の愛」「ラストダンスは私と一緒に」「ニューハート」「鉄の王 キムスロ」など)もコンサートで「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌っているのがあり、やはり韓国では知られた歌なんだなと分かる。(↓出だし、いしだあゆみの音源が披露されている。「♪いつものように」が「♪いちゅものように」と発音されているのがちょっと笑うが)
まあ、一言でいえばこの曲は名曲だってことだ。
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