2024年12月30日月曜日

ハタ坊交えて歯医者さんらと会う

今夜は歯学部の友人たちとの懇親会が中央駅近くの居酒屋「炉端 修」であった。この前胃カメラと大腸内視鏡を受けたダイスキから栃木からハタ坊が来るので来ないかとの誘いがあったのだ。ダイスキとハタ坊は1978年の鹿大歯学部1期生で私とは鹿大医学部バスケ部入部もいっしょだった(他に今回は不参加のさあいっしょ君もいた)。ハタ坊と会うのはデス川の結婚式以来35年ぶりくらいだ。

当時の歯学部は出来たばかりで、部活動が全く組織されておらず、歯学部生たちは最初の2年間医学部の各部に入って活動していた。私はバスケ部に1ヶ月ほど遅れて入部し、すぐに彼らと仲良くなった。医学部からは私以外に数人いたがみなすぐに辞めてしまって、夏の合宿の頃は1年生は歯学部3人医学部1人の4人だけになってしまっていた。2年生になると歯学部2期生として泣かん咲き、ブラックツリー、平成君などが入ってきて当然彼らとも仲良くなった。そうすると他の歯学部生とも友人が増えていき、父デンコーなどは「テルは歯学部生しか友人がいないようだが大丈夫かぁ」などと言っていた。週に3回欠かさずいっしょにバスケの練習をし、その後もいっしょに遊んだりしていたのだから、それは当然のことで私は気にしていなかった。

2年生になってダイスキ、ハタ坊、さあいっしょの3人は麻雀にハマっていった。今からすると信じがたいことだが、最後まで麻雀をしようとしなかったのは私だった。高校の頃、先輩の九大生がやって来て「大学生になったらな、麻雀はしない方がいい。やったらと留年をする」と忠告してくれたのでその教えを守っていたのだ。しかし、いっしょに遊んでいた3人が部活が終わった後、麻雀に走り、私とは遊んでくれないようになった。2年生も後半に入った頃、部活終わりにハタ坊のアパートにいっしょに行き4、5人で麻雀をするのを私は見ていた。見ていてもやる気は起きず、マンガ読んだり他のゲームしたりしていつの間にか寝てしまっていた。気がつくと翌朝で私とハタ坊だけになっていた。帰ろうとする私をハタ坊は「こてる、ここに座れ」とこたつ兼テーブルをはさんで麻雀牌をそろえ始めた。「いいか、麻雀のやり方だが・・」と4面子1雀頭はこうして作ると、麻雀の基本中の基本を教えにかかったのだ。麻雀歴44年、私を麻雀に引き込んだ犯人はハタ坊だったのだ。

それからというのもの、部活の終わりにハタ坊の部屋で4人で私への指導を兼ねた麻雀が続き、私はゲーム進行やルールなど少しずつ覚えていった。1、2ヶ月する頃には私が一番熱心になっていたかもしれない。翌年1月の成人式の日、同い年のダイスキと私は式参加の後、雀荘パールにいた。そこでダイスキが麻雀入門書を持っていて私に貸してくれるという。田中健二郎という麻雀プロのはしりの人が書いた本で私はこれを2日で読み切って点数計算、符計算など麻雀の小難しいところを全部覚えた。点数計算など麻雀を何十年やっても覚えない人がいるが、既に実戦をこなし興味がピークに達していた私にはすいすいと入って来た。ただ、案の定というかその後1年だけであるが留年をする羽目にはなった・・。

今日の参加者の2年後半からバスケ部に来た2期生イニシキ、1期生のデス川、ミドル、せっちんなど結局全員と麻雀をやり合った仲だ。今日は娘が帰郷していて来られなかったが未だに麻雀で付き合いのある1期生のジャズ魔もその仲間だ。せっちんがジャズ魔から正真正銘の国士十三面待ちを上がった場面を私が言うとせっちんはやはり覚えていてくれた。他、私が生まれ初めて上がった役満小四喜はダイスキから「西」単騎で上がったことなども出てきた。参加者全員8名の共通項は麻雀であった。↓集合写真。「こてるが一番若い」とはみんなの一致した評価だったね、エヘン。私のすぐ下がハタ坊。右がデス川。

ハタ坊は栃木の某市歯科医師会の副会長をやっているという。この前の歯学部1期生同窓会には参加出来なかったらしいが、ダイスキがそのことをマイクで同窓生に言い「レセプトの審査もやっている」と付け加えると「ほう〜」だったそうで、ぬぼぅとしていて2年留年もしていたゆえにみな驚きの反応だったそうだ。彼の奥さんは歯学部の後輩で私も知っていて鹿児島市出身だ。子どもは1人いて医者になっているとか。最近の彼はゴルフ専門らしい。日焼けしているのはそのせいだな。

皆65歳から66歳でそろそろ老人病(目が見えない、耳が遠い)などの話題があるも比較的「病気自慢」が少なかった。ハタ坊も奥さんの実家の鹿児島に年に1回程度は帰って来るそうだからこの際とLINE交換もしておいた。そういえば今年はミニ同窓会みたいな会合が例年に比べ多かったな。元気で会えるのが何より大事だ。これからもこうした集まりにはなるだけ参加しておこう。

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