2026年3月1日日曜日

若さと体力がないと・・

家族アルバム「見てね」にマーヤさんから投稿があった。まあ2日に1回くらいは投稿はあるのでいつもの感じかなと思いきや、「44枚」という数に驚いた。「4枚」の間違いじゃないのか?いや、本当だった。セージ一家は今日ココちゃんを連れて東京ディズニーランドに出かけたのだ。マーヤさんの姉のアーヤさんと娘の5歳上のエーナちゃんもいっしょで、ココちゃんとは服もお揃いでまるで姉妹みたいだった。

朝から夜まで、まだ2歳になる前のココちゃんがディズニーランドの面白さ、楽しさが分かるのかなと少々疑問に思ったがそれなりに楽しんでくれたようだ。でも親のセージとマーヤさんは絶対大変だったはず。喜ぶ↑、不機嫌↓、笑う↑、泣く↓、寝る↓楽しむ↑、喜怒哀楽の権化のような幼児の上げたり下げたりをあやしながらの行楽だったようだ。どうこういうより写真を見てそう思ったのよー。





いやいや、動画を見ると、パレードなどはエーナちゃんは手を振ったりして大いに楽しんでいたが、ココちゃんはさっぱりで、やはりご機嫌な時は何かを食べる時だ。上のミッキーのケーキなどマーヤさんはカメラにニコッだがココちゃんは視線がそっちに行っているもんねぇ(笑)。

もし「ココちゃんをディズニーランドに連れて行って楽しんで来てもらえませんか」と頼まれたらソッコーお断りだな。いや、初老の身には体が持たんよー。セージ夫婦はまだ若いから出来るんだ。今回の44枚の投稿写真を見て、子育てするにはやはり若さが必要!って思ったことだった。

2026年2月28日土曜日

マッキーは「眞一郎」か、「真一郎」か

チッチが帰鹿したのは、実は中学時代からの友人ザミドル君の結婚式に出席するためだった。ザミドル君はチッチとはサッカー部の同僚で、私も時にグラウンドまで車に乗せたり、高校生の頃はいっしょにボウリングをしたりしてよく知っている子だ。東京で消防士になり、そこで新婦とは知り合ったそうだがが、同じ伊敷台中出身で1歳年上の女性だった。高校もいっしょで在関東者のミニ同窓会で知り合ったという。結婚式場は樋之口町の「ザ・ピーク プレミアムテラス」とのことでそこなら私も数回行ったことがある。

そこまではある程度聞いていたが、チッチが二次会など終え、持って帰ってきたパンフレットを見て、カールが「ザミドル君のお相手はテルくんの高校の同級生の娘さんじゃないかしら」と言ってきた。「なに、名前は?」「マッキーさん」「ほう、父親はもろ高校同級生で卒業写真も隣同士で写っているし、奥さんのマッキーショーさんも高校2年の時に同じクラスだったぞ」と、同じ団地に住んでもいるしでよく知っている人たちだった。そういえば、セージが幼稚園の時に、園のイベントで夏の暑い日曜日に親子で城山登山があって、その時にマッキー親子ともどもいっしょに登り、へろへろになった思い出もある。その時の女の子だったのかー。

そこで、チーに確かめると間違いなかった。友人の結婚相手の両親が私の同級生だったというのは初めて知ったようだ。卒業アルバムでの私とマッキー君がならんだ写真や7年前の還暦同窓会では母親とのツーショットも見せると、チーはスマホの写真に収めていた。きっと新郎に転送する気だろう。↓左が私。右がマッキー君。お顔を載せて大丈夫?たぶん大丈夫。私はともかく、マッキー君の現在は、眼鏡だし、おでこがずいぶん違うし・・。
↓は同窓会でのマッキーショーさん。新婦が色白なのはお母さん似かな。
最近の結婚式には新郎新婦の経歴やエピソードが載ったパンフレットが作られることが多い。参列者全員が新婚夫婦のことを詳しく知っているわけではないのでこれはなかなかに良い慣習と思う(やはりパンフレットは大事だよ〜)。
ザミドル君にチーがスマホで転送した後の感想を聞くと、マッキー岳父は幼稚園のエピソードは覚えていたそうで、他にマッキー君が受験浪人中、天文館で鹿大大学祭の御輿担ぎをする私に手を振ったエピソードは「え、それは覚えていたけど、たったそんだけ?」だったらしい。高校時代同じクラスだったのにーって。

それとマッキー君の名前だが、私が書いた「真一郎」の字がチーによると「結婚式の席次表には『眞一郎』となっていたけどなー」だったとのこと。ふーむ、私も実は卒業アルバムで確かめて「真一郎」と書いたのだったが・・。どっちが正しい?たぶん本当は旧字体の「眞一郎」だったが、50年くらい前は漢字は出来るだけ簡易な字で表記しましょうという風潮だった。それで卒アルにも新字体で表記されていたのだろう。そこで私はチーに言った。

「『真一郎』だと『信じたい』ネ」
「え?」
「ほら・・新字体」
「・・・」
「ねづっちでーす」と私(笑)。

2026年2月27日金曜日

チッチがイタリアに行ってきたと

本来は今夜は防火ボウリングのはずだった。それが中止になり、さらに加治木温泉病院の懇親会参加も打診されていたがボウリングのため断っていた。いまさら「参加出来ます」というのはばかられ何も予定がなくなった。はずが、ちょうどチッチが帰鹿するというので空港へのお迎え役を買って出た。17時20分着で私の勤務は17時半まで、ちょっと待ってもらえば18時ぐらいには車で拾えるだろう。

チーはこの前友人らとイタリア旅行に出かけていた。ベネチア、ローマを主に観光したという。ベネチアは水の都、日本にはない風景で良かったそうな。また事前にUーNEXTで「ローマの休日」も鑑賞したそうで、スペイン広場、トレビの泉、コロッセオなど見たが「真実の口」には行かなかったとか。ふむ、高校時代にイギリス、フランスを修学旅行で訪れているからヨーロッパを3ヶ国も観光出来ている。それに比べ、私ら夫婦は一度もヨーロッパには行ったことがない。新婚旅行を除けば夫婦や家族で海外旅行をしたのは2012年の韓国、2014年の台湾のみだ。とりあえず今年はアメリカはロサンゼルスに行って大谷のドジャースの試合を観戦するつもりである。元気なうちに海外には行っとかないとなー。

チッチ久しぶりの実家ではカールが沖縄そばを準備してくれていた。軟骨は鹿児島産黒豚のものだが、麺は照喜名製麺所の縮れ麺を沖縄で直接買ったものだ。


チッチのお土産がいくつかあり、日が変わって今度はその中からカールがパエリアとパスタを作ってくれた。

上のパエリアはチッチが元々イカ墨のリゾットを買ってきたんだけど、リゾットにしないでパエリアにアレンジしたそーな。下のパスタはこれもチッチが買って来たアンチョビとケッパーという実を使ったもの。へへへ、美味しそうでしょ。こてる家はカールのおかげで料理に関しては国際的やぁ。

2026年2月26日木曜日

こてる先生は中山祐次郎先生になりすましたのか

2月18日に話題にした「森と湖の里」パンフレット問題、パンフレットを指宿図書館に着払いで送ったところ、「届きました」と病院に電話連絡があった。青雲会病院の封筒で送ったので病院に館長から直接お礼の電話があったのだ。わざわざありがとうございます。

館長によると、その「森と湖の里」を調べるきっかけは某指宿市民から「以前利用したその施設をどうなっているか見に行ったところ全く影も形もなかった。私の記憶は夢まぼろしだったのだろうか」というレファレンス(Reference)があったのだそうだ。レファレンスとは図書館員(司書)が利用者の調査・研究や疑問の解決をサポートするサービスで、館長は「森と湖の里」について調べたが、詳しい資料は残っておらず、分かったのはその施設が1971年から始まって2005年の記録には残っていなかったこと、国会図書館にわずかに写真らしきものがあったくらいで、十分な結果は得られなかったそうだ。そこでネット検索し、私のブログが引っかかったというわけだ。

実際、私も「森と湖の里」「鰻池」で検索してもこの施設については私のブログ以外引っかかってこない。南日本新聞での中山祐次郎先生のエッセーには「・・その次に到着したのは鰻池というところだった。キャンプ場のようなところに5、6軒のコテージが散在し・・」とだけしか書かれておらず、施設名には触れられていない。私の1年後に入学した腹出しDrに聞いても「ああ、確かそんなところに行ったねぇ」ぐらいしか出てこず、「森と湖の里」という名称は全く出て来なかった。いやぁ、日記に記録し、資料を添付しておくって大事なことやなー。

指宿図書館の館長さんはその後2026年2月18日のこてる日記にコメントをまた残してくれた。そしてそれはちょっとびっくりの内容だった。

「・・・この連絡主(筆者注;館長さんのこと)は、このブログも電話も中山先生から電話がきたのだと思い込み、大明神をしてしまっており、職員から笑われたのでした。Dr.こてる様、ありがとうございました。笑」

なんと、私からの最初の電話を中山祐次郎先生からと思い込んでいたのか。ブログも
2020年8月18日のはほとんど中山先生の南日本新聞日曜随想をそのまま載せたような内容だったしー。それでそのブログに「先日はお電話ありがとうございます。なんと、中山先生は「泣くな研修医」の中山先生だったのだと、今頃気づくと言う!!図書館にいながら、そこにすぐ気づけず、お恥ずかしい限りです。」というコメントを残していたのだ。結局はこのコメントも「お恥ずかしい限り」なのだが、ちょっと面白いのでそのまま残しときますわ〜(⌒о⌒)。↓が中山祐次郎先生。

2026年2月25日水曜日

眼科チームとボウリングだっ

さて、今夜は19時半からサンライトゾーンことサンライトボウルで眼科の先生方とボウリングの練習だ。サンライトにはもう10年以上も行ってないんじゃないかな。姶良から10号線を通ってだいたい4、50分位で着くと計算して出発したのだが19時ちょうどに着いてしまった。まあ遅刻するよりはましか。

久しぶりのサンライトはほとんど昔と変わっていなかった。1970年にオープンしてから56年も続いていて鹿児島の中では老舗のボウリング場だ(枕崎のボウリングセンターが昭和30年代後半にオープンで一番古い)。1990年代半ばくらいまではオートスコアラー機能もなく手書きでスコアを書いていた。当然、客は少なく、木曜日なんか1ゲーム200円のサービスデーで投げ込みたい私は木曜によく通っていた。今日は20時過ぎからリーグ戦があるとかで一般客が使えるのはたった4レーンのみ。ナカダイDrが事前に予約してくれたおかげでどうにか2レーン分使えることになった。料金は5ゲームパックで1700円は相当に安い。会員になればもっと安く利用出来る。なかなかだ。

眼科からは50歳代のナカダイDr、30歳代のコメダイDr、それに臨床工学士のシモダイ君が来てくれた。お互い「初めまして〜」だ。早速投げ始めるとレーン中央付近にオイルがほとんどない。10ボード付近にプロウラーを投げるとどんどんくい込みレーン左に流れていく。これじゃぁあかん。ボールをレギオンソリッドに変えて左側に立って右10枚目を狙うコースを選んだ。これでどうにかポケットを突くことは出来たが、相当に難しいコンディションだ。↓は色とりどりのボウリングボール。実はこれ以外にもまだ数個ボールはあった。

眼科メンバーのまとめ役のナカダイDrはオーソドックスな投げ方だったが技士のシモダイ君は今風のボールを大きく曲げる投法、コメダイDrは比較的オーソドックスも力強さがあってスコアも一番良かった。ナカダイセンセイ、2ゲーム目はなぜか左腕で投げたりもしていたよ。そうそう、シモダイ君はボールマニアとかでちょくちょくボールを変えていた。「ごくらも彼が何個ボールを持っているのか知らないんですよ」とDrたちが言うので確かめると、「車に6個積んでいて、家にあるのと合わせると10個あります」だって。ひええ〜一時の私よりすごいじゃん。私も家に飾ってあるのを入れると5個だがいらなくなったボールは人に上げたり捨てたりするからなー。↓本当は右投げのナカダイ先生。

↓力強いコメダイ先生。
↓このフォームからいわゆるローダウン投法と分かるシモダイ君。

私はスペアミスもいくつかあったりで2ゲームから最終5ゲーム目まで170〜180のスコアで200アップは出来なかった。コメダイDrは最後200、シモダイ君は1ゲーム目に200アップしていたから大したもんだ。実は自分の投球ビデオを撮ってもらっていない。まあ初対面だしやや頼みにくかったしーね。久しぶりに5ゲーム投げて、汗もかいたし若干疲れもあった。

「以前は毎週のように投げていましたが、コメダイ先生が指宿に転勤になったりして滅多にいっしょには投げられないんですよ」とナカダイDrは言う。そういうことなら私もメンバーに加えてもらって「いつでもお誘い下さい」とお願いしておいた。ボウリングは仲間がいてこそ長続きするスポーツだもんね。これからもよろしくお願いいたしまーす!

2026年2月24日火曜日

アール・アンソニー対ノーム・デュークの対戦は千代の富士対貴乃花戦である

明日、先月28日に話題にした眼科のDrらとボウリングをすることになっている。そんなこともあってか最近はYouTubeでボウリングの試合をちょくちょく見るようになった。最新の日本のプロボウリングやアメリカのPBAの試合はもちろんだが古いアメリカのプロボウリングの試合もよく見る。なにせ私がボウリングを始めるきっかけは1991年にNHKBSが全米プロボウリングという番組を放送開始したことからだった。以前のこてる日記ではその時の様子を熱く語っていたものだ。

ちょうど1991年という年のアメリカのボウリング界は1960年代生まれのニューエイジが台頭し主役になっていった頃だった。ピート・ウェーバー、アムレト・モナチェリ、パーカー・ボーンⅢ世、ノーム・デュークなどで1959年生まれのウォルター・レイ・ウィリアムズJr.もその世代に入るだろう。彼らの投球を目の当たりにし毎週画面に釘付けで私は観戦していたものだ。ふふ、この日記を読んでいる読者で、上の5人のボウリングプレーヤーの名前を見て「うんうん、そうそう」なんて言える人はせいぜい100人に1人もいないのではないか。実はすごいメンバーなんだ。

他のスポーツ界で例えると、そうだなメジャーリーグは同じアメリカなんで日本のほかのスポーツ界にしよう。大相撲がいいか。歴代優勝回数の1位から6位までを下の図に示そう。
白鵬、大鵬、千代の富士、朝青龍、北の湖、貴乃花。そうそうたる名力士が並んでいる。この6人を知らないという日本人はほとんどいないだろう。次に全米プロボウリングの歴代優勝回数の多い順に6名並べると・・。
1位のウォルター・レイ・ウィリアムズJr.、3位のノーム・デューク、4位のピート・ウェーバー、5位のパーカー・ボーンⅢ世の4人がこの中に入っている。例えればその時代に白鵬、千代の富士、朝青龍、北の湖らが同時に活躍していたってことになる。そんな1990年代は私がボウリングのプレーと観戦両方に一番熱かった時代だ。

で、今日見たすごく古い全米プロボウリング中継ビデオは1983年のクリーブランドオープンで、私がボウリングを始める8年ほど前の古いビデオで画質もかなり悪いものだった。ただそのサムネールに今では伝説のボウラー、アール・アンソニーが写っていたので見る気になった。彼は歴代優勝回数43回で私は名前だけは知っていた。それは私がボウリングレッスン用に購入した須田開代子さんの「図解ボウリングコーチ(1985年刊)」にボウリングの三大ボウラーとして紹介されていたからだ。三大ボウラーとして上げられていたのは、ドン・カーター、ディック・ウェーバー、アール・アンソニーの3人でその写真を見る限りちょっと以前のアメリカのボウラーだなと私は思った。
ドン・カーターはおもに1950年代、ディック・ウェーバーは1960年代、アール・アンソニーは1970年代にそれぞれ第一人者だった。ちなみにディック・ウェーバーの息子が私の大好きなボウラー、ピート・ウェーバーである。ディック・ウェーバーはボウリング中継にもよく出てきていたので知っていたがアール・アンソニーの投球はあまり見たことがなかった。ドン・カーターにいたってはNHKBSの20世紀のアメリカなんていう歴史を振り返るドキュメンタリーに出ていたのを「おおっ」と思って見たことがあるくらいだ。

で、その1983年のクリーブランド・オープンを見ておやおやと思ったのが、いきなり予選4位と5位の試合がアール・アンソニーとノーム・デュークの対戦だったからだ。ノーム・デュークが18歳とえらく若い。
そこでハッとなった。ノーム・デュークは18歳でPBA最年少優勝記録を持っているというのは知識としては知っていた。ならばこの試合がそうなのか。はたしてそのとおりで、上位選手を次々と負かして4連勝し初優勝を遂げるのだった。まだ高校出の若僧が初めてのTV放映の試合に出て、しかもその相手がプレーヤー晩年とはいえ当時歴代最多勝の偉大なアール・アンソニーだったとは。私は千代の富士と貴乃花の取り組みを思い出した。どちらも勝ったのは勢いに乗る若手の方。ノーム・デュークは1991年からのリアクティブ・ウレタンボールに上手く適応し、勝ち星を重ね、2022年に引退するまでに40勝を上げ歴代3位の成績を残した。このあたりも22回の優勝を重ね大相撲のレジェンドとして名を残す貴乃花と31回の優勝の千の代富士との関係と相通じるものがある。また、友人宅の階段から転落し頭部外傷で63歳で急死したアンソニーと膵臓癌で61歳で亡くなった千代の富士、どちらも60歳代前半で亡くなったのも共通している。

2008年、PBAは設立50周年を記念し、専門家委員会に「過去50年間の最も偉大なボウラー50人」のランキングを託したところ、アール・アンソニーは、ウォルター・レイ・ウィリアムズ・ジュニアがアンソニーの記録を多く破っていたにもかかわらず、このリストで彼を上回り1位にランクされた(2位はウォルター)。単に数字だけでは計り知れない偉大さがアンソニーにはあったということだろう。見てみるとサウスポーで堅実にして正確な投球をするタイプだ。奥さんのスージーさんも観客席にいて画面上にアップされていた。アンソニーは先妻との間に二児がいたが離婚し、スージーさんと再婚したばかりだったようだ。↓なかなかの美人さんですな。
ちょっと驚いたのはまだ18歳のノーム・デューク、客席にフィアンセのロビン・ブキャナンさんもいてそれもTVに紹介されていた。
そして優勝トロフィーをもらうときには二人して熱いキスも・・・。
ただ、長くアメリカのボウリング界を見聞きしている私には違和感があった。調べてみると・・ノーム・デュークの奥さんはカレンさんとある。あれ・・・。まあ18歳だもんね、この後二人は結婚したかもしれないが別れたのは間違いない。アメリカのボウリング番組は頻繁に選手のファミリーを映し出す。視聴者からするとそれはそれで興味深いがプライベートもさらされるのは本人やファミリーにはチト困ることもあるってことさーね。

以前のこてる日記でピート・ウェーバー来日の際、人吉のボウリング場で私は観戦に行き、ゲストでプレーするウェーバーを見ていた。↓私が成れるものなら成りたいのがこのピートの投球フォームだ。実に格好いい!
そして以前のこてる日記にも書いたエピソードだ。ピートの6、7年前のジャパンカップ優勝ビデオがレーン上のTVモニターに流されていたのはボウリング場が気を利かしたのだろう。そこに奥さんのトレイシー・ウェーバーもいてそれを見ていた。しかし、ある場面で奥さんが苦笑いをしたのを私は見逃さなかったヨ。その画面には観戦しているピートの先妻がアップで映し出されていたのだった(‾□‾;)。

2026年2月23日月曜日

全日本回転寿司MVP選手権1位だって「めっけもん」

天皇誕生日で休みだ。で、お昼は外食しようと決めていた。ただ、店をどこにするかは例によって直前までなかなか決まらなかった。蕎麦・天ぷらの左膳、焼き肉のなべしまなどは定番だがたまには別のところでも・・と考え始めてもてんで浮かばない。以前も書いたように私は店選びが苦手なんだ。すると午前11時も近くなってきた頃、カールが「回転寿司の『めっけもん』にしようか」と言ってきた。私は即答で「いいね、寿司」と完全に同意だ。

ならば急ごう!

こうした人気店は開店時刻の11時にはすでに列をなしていてその時刻に行ってもしばらく待たされる。で、急いだんだが、めっけもん城西店に着いたのは11時ぴったりだった。ちょうど店内へぞろぞろ客たちが案内されているところ↓で、一番最後がカール。

で、ぎりぎり一番客の中に入れるかどうかだったが、直前に並んでいた客が4、5人の小団体で店員が「はい、ここまでです」と、私たちの前で切りよった。がーん、待ち順1番の紙をもらってしまったよ〜。「30分くらいはお待ちいただきます」だって↓。カールの着ているカーディガンはギボヒサコの手編みで、私は初めて見た。ギボヒサコは意外にも手編みが上手だったらしい。
まあ、待つと言っても今はスマホがある。これがあればどうにか退屈時間はやり過ごせるというものだ。30分弱経った頃に呼ばれ、テーブル席に着いた。さっそく回転皿を手に取って食べ始めた。私はいつも最初は白身からで赤身はあまり食べない。時に中トロを食べるくらいか。エビやエンガワ、穴子、ウニ、イクラ、それにカッパ巻きや玉子巻きなどの安いネタも好きなんだ。なんと普通の魚以外のネタが多いな。
ただ、寿司以外のから揚げとかスイーツ類などは絶対に頼まない。これはこてる家の掟というべきもので、カールの「せっかく寿司屋に来ているのに他の店でも食べられるものを頼むはダメ」という教えによるものだ。セージやチッチも「だから大人になった今でも寿司ネタ以外のものは頼めないんだよ」と苦笑いする。三つ子の魂百までである。

それにしてもこの「めっけもん」、お客が多い。確かにリーズナブルな値段でいいネタを提供してくれているからかな。帰りの支払いのところに店長が表彰を受けたとパネルがあった。なんと「全日本回転寿司MVP選手権」の「演出部門第1位」なんだそうな。

そんな大会があったなんてだーれも知らないが、1位になるってすごい。いろいろなノウハウがあり人知れない努力あってこそ人気店になっている証(あかし)なんだろう。二人ともお腹いっぱいになって4千円までいかなかった。満足じゃ〜。

帰宅するとモリサンチー家のキタローが庭にいた。本名はキタローだけれど私たちはクネオと呼んでいる。だってさー↓を見てよ。たいてい背中を地面にくっつけてクネクネするんだもん。クネオもこてる家に遊びに来るようになってちょうど10年目、同じ家のハッピーちゃんは最近あまり見かけないがクネは数日に1回は必ず来る。そしてエサをねだったりクネったり。今日は天気が良くて良かったねぇ。

2026年2月22日日曜日

一人胃カメラ!

 かつて青雲会病院に勤務し今は鹿児島市内のプーさん病院にいるシホねえNsからLINEに動画が送られて来た。彼女からは年に1回くらいしかLINEは送られて来ない、何事だろうと思ったら、勤務先の内視鏡室の様子だった。

うん、なんだこれは?

げっ、自ら胃カメラを入れて画像観察をしている動画だっ!お顔を見れば消化器内科Drである片付け先生ではないか。鹿大第二内科時代の後輩Drで今はプーさん病院の副院長だ。真剣に画面を見ながら胃カメラを操作している。しかも口から入れる通常タイプの胃カメラで、これは咽頭反射が出やすく、胃の中に空気も入るので普通はきつくてやってはおられないはず。いや、実は私も大腸では一人内視鏡をやっており、この日記でも何度かネタにしている。シホねえNsが青雲会にいたころは彼女にその動画を撮ってもらったりもしていた。一人胃カメラも一度だけやったことがある。ただ私は経鼻内視鏡で咽頭反射が少ないタイプのものを使用した。それでも結構きつく、スコープ操作が大腸に比べ煩雑なので「もうしない」と一人胃カメラは封印したものだ。しかし片付け先生は一度もゲップすることなく器用に操作していた。すごい。このブログでは動画でお見せ出来ないのが残念。

シホねえNsによると「毎年やっていますよ」だって。うわわ、そうか手慣れた様子だもんね。↓は「一人胃カメラ」を見守るぷーさん病院スタッフ。胃カメラしている本人以外、全員口元が緩んでいらっしゃる(⌒о⌒)。

「へー!毎年(一人胃カメラ)とな。私の大腸内視鏡4年に1回よりすごいわぁ」と返信すると、「いや先生の方がすごいよ」とな。いやいや〜そんなことはありませんて。毎年の一人胃カメラと4年に1回の一人大腸内視鏡、ぜーったい前者の方がすごいよ、ねぇ・・(‾□‾;)。

2026年2月21日土曜日

二度目のインプラント

裏のモリサンチー家の梅の木もこの間から花を咲かせ始めていた。今年はたまたま遅かっただけなんだろう。

今日は朝からインプラントの施術を受けに行った。昨年沖縄にギボヒサコの一周忌に行った際、右下奥歯(6番目)が欠けたことを話題にした。その後、歯医者に行くとその周辺の歯(7番目)がもう限界でもともと1本欠けたままにしてた場所(5番目)もまとめて治療しましょうということになった。5番目と7番目にインプラントを埋めてブリッジを形成し3本の歯を作ろうということだ。今日は6、7番目を抜歯し一気にインプラントの土台を埋め込むので2時間くらいかかるということだった。

で、いつもの鹿児島県医師会前の駐車場が満車(ここ2年くらいで初めてのこと)だったので少し歩いて共研公園近くの駐車場に駐めた。1月初めに食事しに来た際、この付近まで来ると駐車場代が安いって知ってたからね。ほんの数分歩くだけで1時間200円が100円になるからバカにならない。後で地図を見たら距離は倍以上違っていた。でも値段半分だから・・。

さて施術前に歯科衛生士の簡単な説明と健康状態把握があった。血圧も測定するというので、チラッと衛生士さんのネームを見て「いつもは120ぐらいだけどシノハラさんが測るから130越えるかもなぁ」と軽口叩くとちょっぴり受けていた。で、結果は140越え!「ええっ、こんなに上がるってー。キンチョーしているのかなぁ」

顔面に手術シートを被せられ局所麻酔を打ってもらい抜歯、その後インプラントの人工歯根埋め込みだ。1時間ちょっとで終わり、その後またシノハラさんに血圧を測ってもらったら今度は110台だった。あれ、今度は下がりすぎじゃ・・。↓のピンク〇が治療前、黄色〇が人工歯根を埋め込んだ写真。

まだこの基板がしっかり固定出来ていないので実際に歯の被せ物を入れるには数ヶ月はかかる。今日明日は口の中も腫れて痛むだろうが、それは抗生剤や鎮痛剤で対処だ。ただ右側で硬いものや大きな肉などはしばらく噛みにくくなる。

駐車場まで行くと300円の支払いだけで済んだ。うん、安い。今後はここに駐めよう。でも、インプラント代を考えるとそれくらい万分の一の世界なのよ。日頃から歯のケアをしておけばそんなにお金も掛かる必要はなかったのにさー。

2026年2月20日金曜日

ワンダーパワーな患者さん

外来患者の中には独自の考えというか偏見、思い込みにこだわっている人がいる。これが普通に接する他人であれば、うちのカールがよくやるように「そうなんだ」と敢えて否定はせずに受け流し、相手の意見を自分自身の評価と切り離して考えるのが賢明だろう。

しかし相手は治療を受けに来た患者である。1ヶ月前の診察で血圧が170から180台とかなりの高血圧ならば治療薬を出すのがまずは真っ当な医療というものだ。その人は80歳代後半女性で、以前は静岡に住んでおられ、半年ほど前に近くの介護サービスもあるマンションに引っ越してきた。この人は「以前の病院で『私は病院や薬が嫌い』と言ったらそこのDrに『もう来るな』って言われたの」だったそうで、「それはひどい言い方されましたね。当院ではそんなことは言いませんよ」と答え、降圧薬をまずは1種類処方し、自宅血圧を測定して次回持って来るよう指導をしていた。
それで約束どおり、4週間後に私の外来に来て血圧手帳を見せてくれた。うん・・?

ほとんど血圧は下がっていないじゃないか。よくて160台、180台もままある。「いや、これは薬が効いていないですねぇ」と言うと、「私、薬を飲んでいなかったんです。食事療法で治したいと思ってー」「え、でも手帳にあるように全然効いていませんよ。こんなに高かったら薬を飲んででも下げなきゃー」「私、婦人科の薬で失敗したから〜」という。どんな失敗は知らないが50年も前のことらしい。それに97歳まで生きた姉がいて、彼女を自分は食事療法で長生きさせたからーと言う。それでも「このまま血圧が高くていいことはない。急な脳出血もあるかもしれないし、心臓、腎臓、血管どれにとってもいいことはない。薬を飲みましょう」と説得した。しかし、どうにも反応が鈍い。思わず「だったら、もう病院には来るな!」と言いたくなった。

「当院はそんなことは言わない」と前回言い切っただけにそこはぐっとこらえたがどうにも対処しづらい患者さんだ。そこで話題を変え、当院では採血をしていなかったため採血を指示した。すると貧血が結構目立っていた。半年前の静岡の病院より結構下がっている。消化管出血も疑われまずは胃カメラを予約させた。当然血清鉄も低いので鉄剤も出したが果たして飲んでくれるだろうか。まあ食事でも鉄はある程度補充は出来るが食事に含まれる鉄と薬に含まれる鉄に特に差違はない。薬なら1ヶ月でだいたい正常化出来るのだが・・。

ふと、先月のカルテ記載を見ると以下の文言が書かれてあった。(「という」と書くべきところ「とびう」と誤記しています)
ワンダーパワーだよ。遠赤外線だ。確か暖かくなる健康器具だ。うん、きっと効くよね。だってワンダーパワーだもん。病院の薬よりも絶対効くもんねー。

2026年2月19日木曜日

医療安全の極意はボウリング?!

午後13時半から大会議室で全職員対象に私の「医療安全講演」が行われた。開始5分前にはまだかなりまばらな集まりだったが、13時半ちょうどには部屋の後ろまで人で埋まっていた。朝礼スピーチの時より集まっていやしないか。ちょっと驚いた。スピーチを聴いて感想を提出しなければならないし、参加出来なかった職員は後日院内LANに保存される動画を見て感想を書かねばならない。そこがちゃんと機能しているんだね。

が、私はせっかくの貴重な昼休みをだらだらした講演にはしたくなくてこの前の医局会同様にテーマを一つに絞り簡潔に語ることを意識して作った。医療安全には厚労省が作成した「10の要点」というのがあり、今日はその中で9番目の提言「与薬」についてで「患者と薬を再確認 用法・用量 気をつけて」を自身の失敗例を具体的に挙げ、なぜ起きたのか、それに関わる職員はミスを防げなかったのか、今後の対策といったところをまとめたのだった。

そして。そろそろ終わろうかというときに、突然私のボウリングシーンが流れた。
今年1月21日のこてる日記「堅実だが爆発はせず」(https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2026/01/blog-post_21.html)にもアップしたワッシャーピン残りをカバーした動画を見せたのだ。失投して難ガターさんに笑われた直後、ちゃんとスペアして逆に唸らせたシーンだ。ボウリングも医療安全対策も「ミスしてもカバーすればよい」ってこと。まあ、得意のこじつけやね。

講話の感想文のまとめが後から私にも届くかと思う。まさか「安全対策の極意はボウリングと同じだ」なーんてのがあると、チトまずいか・・かな。

2026年2月18日水曜日

「森と湖の里」のパンフレットが実はお宝だった!

5日前ほどのこと、こてる日記に珍しくもコメント書き込みがあった。それも最近のではなくて5年以上前、2020年8月18日の「中山祐次郎氏随想から『森と湖の里』の思い出」→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2020/08/blog-post_18.htmlへの投稿だった。

読んでみれば分かるが、外科医でエッセー、小説などで活躍されている中山祐次郎氏の新聞エッセーを話題にし、その関連で自分の大学入学時の思い出をオーバーラップさせた内容だった。その中で指宿の鰻池にあった宿泊施設「森と湖の里」のパンフレットを紹介した。なんとそのパンフレットが欲しいというのだ。

「鹿児島県指宿市の指宿図書館からです。市民からのレファレンスで、この森と湖の里のことを聞かれているところです。残念ながら指宿市には、このパンフレットがありません。まだ、お手持ちでしたら、ぜひ、指宿図書館にいただけませんでしょうか。指宿市の記録として残したいと思います。よろしくご検討ください。」

いやはや、なんと奇特な申し出だろう。日記にはさんでいて40年以上も見直すことのなかったパンフレットが今や貴重でぜひ欲しいというのだ。

「ほう、これはこれは。ブログに書いているようにたぶんまだ昔の日記帳に張っていると思います。48年も前のものですが、確認してあれば、剥がしてそちらに送りましょう。住所など教えて下されば幸いです。」と、コメント欄に私も追記した。

しかし、このコメント欄、連絡のやり取りにはあんまり向いていない。連絡主からはその後何の反応もなかった。日記のパンフレットはまずまずの保存状態で残っていた。郵送してやってもいいが、今時ネット上で安易に信用してやりとりするのはこの前の詐欺注文の一件のように問題がある。そこで本当にこの投稿が確かなものか指宿図書館に電話して確認してみた。すると、一般職員が出て、私がかくかくしかじかと話すと「しばらくお待ち下さい」とあり、代わって出た女性職員が「確かに私が投稿しました」という。それで「譲ってもいい」というと「ありがとうございます。料金受取人払いでいたしますのでぜひ」とのことだった。ついでに言うとその人は図書館長だった。

ここまでくればぜひ送ってあげよう。私が持っているより図書館に置いておけば、今はもうなくなった「森と湖の里」が確かにそこにあったのだという証拠になるのだ。館長の話では2000年の市の記録にはあるが、2005年にはもうなかったそうだ。48年前のパンフレットにある茅葺き屋根も後にはスレート屋根になっていたという。そして「今はそれがどこにあったのか全く跡形もないです」なんだって。↓パンフレットだけでなく「利用のしおり」もあって当時の料金などもばっちし分かる。
「森と湖の里」施設は1970年代から2000年初頭の鹿大医学部入学生にとって学生時代最初のイベントだった。中山祐次郎先生も青雲会病院の外科Drたちも私もこれから始まる医学部生活の期待と不安とともに強烈な思い出として残っている、はずだ。その貴重な証拠品を残して置きたいという要望に図らずも応えることができて、私も満足である。

2026年2月17日火曜日

あの頃、赤いコスチュームのはずのジャネット・リン

 医局会レクチャーは滞りなく終わった。さほど質問もなく拍子抜けするくらいだったが、これは異食癖の症例を出さなかったせいだろうな。そのインパクトの大きさや疑問の提示など画像&動画で見せればみんな食いつくはずだった。しかし今回の症例集めでいざ作ろうと思えばそれらは比較的余裕で作れそう。この2週間きつかったがまた報われる時が来るだろう。午後は早帰りをした。疲れもあるので夕方は仮眠を取って、夜は医療安全のスライド作りがある。でも、まだもう1日余裕あると思うと進まないのよ・・。

ミラノ・コルティナ冬季オリンピックではフィギュアスケートのペアで「りくりゅう」こと三浦璃来(24)・木原龍一(33)組が世界歴代最高得点の158.13を記録し、金メダルを獲得したという話題一色だった。前日だったかショートプログロムで演技に失敗し5位になったと聞き、「やはり本番では有力候補も簡単にはいかないんだな。銅かよくて銀か」ぐらいに思っていた。しかしフリーでは最初やや堅かったものの途中からは笑顔も出て、素人目にもいい縁起だったなーと分かるほどだった。終わってみればギリギリどころか結構な差での金メダルだった。いや〜、やるなーニッポン!
昔、札幌オリンピックでは日本のフィギュア女子代表は山下とかいう選手だったかな、動き、腕の振りなどこれも素人目にもかなりレベルが落ちるって分かった。それに比べアメリカのジャネット・リンよ。動きがダイナミックで転倒しても満面の笑顔でそのころ小学6年だった男子どももイチコロで大人気になった。結局銅メダルに終わったが、そのころは盤上で円を描くコンパルソリーという演技が重要視されそっちは全然面白くなった。その後フリーのみに変更されたのは優勝した誰かよりもジャネット・リンの方が人気も実力もあったはずという多くの観衆の気持ちが大会本部にも届いたからじゃないかな。この尻もちとその後の笑顔で一大人気となったジャネット・リン↓。
小学校の卒業式が終わってしばらく経った春休み、私が南州寺の矢野君の家に行った時、彼はジャネット・リンの大きな白黒写真を持っていた。あれ?ジャネット・リンと言えば真っ赤なコスチュームなのにと思ったらそれは白黒コピーの写真だった。「え、なんだそれ?」と私は不思議に思った。「ほら」と赤のリンの写真と白黒だが全く同じ形大きさのリンの写真を見せられ、コピーというものを私は生まれて初めて見たのだった。

それは1972年のことだから半世紀以上も前で、私はコピー機を「文明の利器やぁ」と感激するまだまだウブな少年だった。