「消化器内視鏡」を専門とするDr.こてるです。
趣味のボウリング、麻雀や病院での出来事、家族の内輪ネタから時事問題まで
日々の徒然を「こてる日記」として、毎日アップしています。
2000年5月から開始し2015年5月分からブログに移行しました。
現在、おおよそ2日遅れでアップしています。
2026年3月31日火曜日
自宅でのリモート会議で起こること
2026年3月30日月曜日
新人の入職式
まだ新年度は始まっていないが、青雲会病院の入職式があって、新人17名のうち、今日は看護師やリハビリなど計13名が新人として辞令を受け取った。それを渡す役目は院長の私である。いつもは新人さんの名前を私が呼ぶはずが事務局長の畠鏡さんがマイクで呼ぶ方式に変えた。畠鏡さん曰く「なかなか読めない名前の人も多いですから」だって。確かに平成も後期生まれの名前は、ぱっと見、読めないものも多い。個性を尊ぶ教育が以前から叫ばれていた気がするも、名付けにおいてはとっくにそれは達成されているね(笑)。
あと青雲会病院では2026年度からネームには名字だけで名前は記さないことになった。これは個人情報保護の意味もあるがカスハラやSNS対策の意味もある。なにがしか病院職員に対しカスハラ、セクハラなど行う連中に余計な個人情報を教えないほうがいいということだ。とりあえず名字があれば呼びかけや仕事の上でそれほど不都合はないしー。
ただ私は職員の名前を見てより覚えられたし、名前の由来などがきっかけでその人との会話が弾むことが多々あり、少々残念な気がする。今後は「名字は〇〇さんだけど名前はなにかな?」のパターンで尋ねていこう。↓は会が終わった直後の新人さんたち。この直前まで緊張した面持ちだったが、全体記念写真が終わった直後を狙って撮影すると、みんな和らいだいい表情になっていた(⌒о⌒)。
今度の金曜日には新人教育の一環として院長スピーチも予定されている。スライドはまだ作っていないが、例年の使い回しで一部変更するだけなので余裕はある。しかし、今日の午後、「来週の朝礼スピーチはこてる院長です」と聞かされ、ガーン!となった。え、聞いてないよ。あ、でも新年度は理事長に続いて私が朝礼スピーチするのが恒例だった。すっかり忘れていたよ。余裕が一気になくなった。暇つぶしにYouTuber見たりネット麻雀したりなんて出来ないわー。しかし昨夜は夜更かししていて、月曜の今夜は夜更かしすることも出来ず、椅子寝でバタンキューなのであった。2026年3月29日日曜日
カスハラな若者
いや〜、街中でびっくりするシーンに出くわした。
昼前、カールとチッチと外食しようと私の車で市内に出かけた。カールが「〇〇ホテルのレストランに行ってみようか」と提案したのはそこの3千円のチケットを持っていたからで、ホテル内の立体駐車場に入って、前の車が空くのを待っていったん停止していた。と、前の車から20歳代せいぜい30歳代前半くらいの男性がこちらに向かって来た。いや、私の車の横にいた駐車場誘導員のオジさんに向かって来ていたのだ。
その男性、誘導員にぐっと近づき、えらい大声で「おいっ!謝れよ。さっきは何よ。敬語を使わんか。何よその態度。オレはお客やぞ!」とすんごい剣幕だった。聞いた瞬間、こっちは無関係だけれど何かムカムカとなった。誘導員はいったん「すみません」とは答えたものの弁明したそうだった。しかし若者が「敬語で話すのが当たり前だろ」「分かってんのか!」と何か反論したら殴りかかりそうな勢いで何も言える雰囲気ではない。ちょうどデジカメもそばにあったのでよっぽど動画を撮ろうかと思ったが、すぐ目の前なのでそれはしなかった。いや、どんな応対があったにしてもあの言い方、態度はないよ。
実は助手席にいたチッチがこっそりスマホで動画を撮っていた。さすがだ。↓にそのごく一部をアップしておこう。
先に降りていて車に近づいたカールは私がその若者に怒られているのかと思ったそうだ。若者が車に戻っていく時に、私は窓を開け誘導員に「あれはカスハラですよ」とそっと話しかけたが、あまりのことに誘導員の返事はなかった。私を含めチッチもカールもドン引きのシーンだった。誘導員のオジさんが何かぞんざいな言い方で車の誘導を行ったのか、いやそれでもあんな切れられ方をされる筋合いはない。チッチは「あの人、よっぽど沸点が低い人だね」とつぶやいた。カールも「あんな怒り方して恥ずかしいとは思わないのかな。家族だったら注意しないといけないのに、親もどんな育て方をしたのかしら」と不思議そうな表情だった。実はホテルのレストランは予約していないとダメだったとかで、カールは車に戻って来たのだ。駐車場の雰囲気も最悪だったし、何も悪いことをしてないのに私たちは這々(ほうほう)の体でそこから出ていった。その後も、次の店を探す道すがら、さきほどのカスハラ若者の話題がずっと続いた。敬語を使ってもらえなかっただけで不愉快になるなんて、日本人は店員などから日頃丁寧過ぎるくらいの接客を受けているからじゃないか。実はそれが世界的には当たり前ではないと知らない。フランスなんか店員が客を馬鹿にするわけではないけれど見下すくらいの態度らしい。日本人は馬鹿丁寧に接客されるのに成りきっているせいで自分がかなり偉くなってしまっているのだろう。だからあんな若者が出現してしまう。
もし私が誘導員なら「オレはお客やゾ!」と怒鳴られたら「だから何よ、そんな大声張り上げる客なんぞ来なくていい。さっさと帰れ!」と言い返しそうだった。いや、実際あんなに大声張り上げたら、例え客でもアウトだ。まず「そんなに大声出されたら『怖いです』」と返答しておく。そうすることで威圧的な態度にこちらは萎縮していると伝えていることになる。一応は「何か気に障ることを言いましたか」と応答はするが、あの感じではそうはならないかな。ともかくもあんなに大声、暴力的な物言いをする客はホテルにとっては迷惑そのものなので、今後一切来てもらわなくてもいいしそれがホテルのためにもなる。監視カメラもあるはずだし、誘導員はホテルに伝えてもいいくらいだ。
公共の場で些細なことなのに切れて大声を上げるのは恥ずかしいし品格を大いに下げる行為だ。こてる家ではみんなそれで意見が一致した。
2026年3月28日土曜日
井形昭弘先生の至言(古谷博和先生の一文より)
「私は鹿児島大学医学部卒業後すぐに九州大学医学部脳研神経内科に入局したため、井形先生に教えを受けたのは医学部の4年生から6年生までの2年半ほどにしかすぎません。しかし授業の合間に先生がお話しになった言葉が別にメモしたわけでもないのに、今も心の中に刻み込まれ日々の診療で困った時に助けてくれます。いずれも授業中に語っていただいた言葉で、それが何の疾患の授業だったかは全く思い出せないのですが、皆様方も先生の言葉を味わって下さい」
学生として授業中にこの言葉を聞いた時は、「そんなことはないだろう。人の生き死が一目でわかるようになるには相当な経験と知識が必要だ」と思ったのですが、国家試験に合格して医者になり、当直アルバイトの病院で夜中に電話でたたき起こされた時、井形先生のこの言葉を思い出して患者さんの顔を見に行くと、本当にピーンとわかりました。生死に関する人間の本能というものは凄いということを実感した言葉です。
神経内科という難病(特定疾患)と切っても切れない診療科を生涯の仕事として選んでから、時として疾患の重篤さにこちらの心がくじけてしまいそうになる事があります。 その時にこの言葉を思い出し、「このわけのわからない病気にも原因があるのだ!」と自分を鼓舞しています。
●「富士山に登る人はたくさんいます。箱根山に登る人もたくさんいます。でも箱根山と富士山はつながっているのに、その境目に登る人はあまりいません。人があまり登らないその境目に登ると面白い景色が見えるかもしれませんよ」
●「ガンは(1982年の段階で)午前4時の病気になってきました。 東の方が少し白んできて、進む方向がわかってきたのです。神経内科疾患は(1982年の段階で)午前2時の病気です。右も左も真っ暗でわからない状態にあります。でもこの時計の針を進めるのは君たちの仕事です」
2026年3月27日金曜日
野球づくし
いや〜、今日はもう野球観戦づくしだったわ〜。
昨夜は椅子寝をしてしまって寝たり起きたりの繰り返しで、午前4時前くらいにどうにか椅子から離れてTVの前のソファに移動した。村上宗隆がホワイトソックスに入団して初の試合が午前3時から始まっていてそれを録画で早送りしながら観戦した。村上はブリュワーズの剛速球ピッチャー、ミジオロウスキーに対し、2ストライクと追い込まれるもその後ボール球を見きわめ四球を選んだ。この打席がなかなかいい。メジャーデビューということでいきごんでバットを振り回すのではなくちゃんと野球をしている。次打席も四球を選び、これは相手ピッチャーにしたら嫌な打者に映るだろう。3打席目は強い打球だったが相手内野に上手くはばまれた。で、6時になって試合終盤の放送がサブチャンネルになり続きをいったん見られなくなった。その頃私はまたウトウトとし始めその後の打席を知らずに過ごした。だから村上が4打席目にメジャー初ホームランを打った映像をライブでは見られなかったのだ。残念。2026年3月26日木曜日
カール、帯状疱疹ワクチン接種を受ける
カールが青雲会病院で帯状疱疹のワクチン接種を受けた。帯状疱疹ワクチンには2種類あり、簡単に言えば簡易型(生水痘ワクチン)と高性能型(シングリックス)で、高性能型は有効率が9割も効き、有効期間も10年くらいと長い。今回はその高性能型を打っておきたいと希望したのだ。カールは数年前に簡易型のワクチンを接種済みなのにである。
費用も結構かかるのになぜにそこまで予防したいのか。それは叔母のヨーコバーバが帯状疱疹を発症しその後遺症を患い、それを見て「ああはなりたくない。予防出来るものなら是非したい」と強く思ったからだ。当時、高性能型のワクチンは病院にはなく簡易型の生ワクチンを接種したが、「できれば高性能型が良かった」と言っていた。なぜ青雲会にそのタイプのワクチンがないのか、当時のとっくん薬局長に尋ねると「1本2万円でそれを2回打つ必要があり、高いですから」という。うん?うちのカールは高くても性能がよく有効期間もずっと長いワクチンの方を打ちたかったという。「私の妻のように高性能型を希望する人はほかにいないのか」とさらに尋ねると「ぼちぼちあります」というではないか。「ならば導入してよ」とそのタイプ=シングリックスも使えるようにしてもらったのだった。↓に2つのワクチンの違いを表にした。
また2025年度から帯状疱疹のワクチンの定期接種が実施され公費助成が受けられる可能性があり、カールも「いずれ助成可能だが」と打診すると「思い立った時にやっておきたい」とのこと。確かに、後でやれば安くすむと思っているうちに感染していまったりすると後悔もする。その点カールは徹底している。他の例では、知り合いの女性新聞記者が子宮頚癌で亡くなった、義従姉が乳癌になったなどと知り、もしや自分もと毎年必ず検診も受けている。決して他人事とは思わないその姿勢は徹底している。シングリックスは副反応も強いと聞く。実際、カールは午後から筋肉痛や微熱、倦怠感で相当きつかった。「以前のコロナワクチンよりきつい」という。ふらふらしているのを見て、私は解熱鎮痛剤を投与させた。それでも「ワクチン接種しなければ良かった」などという後悔はない。後遺症や命に関わることを思えば副反応なんて一過性のことだって、カールは物事を本質的に理解し実行に移せるタイプなのだ。
例えば一般の患者さんに「癌検診を受けた方がいいですよ」と勧めると、躊躇したり嫌がる人がいる。「なぜ受けないのですか」と尋ねると「癌ですって言われるのが怖いから」と答えるんだ。検査を受けると癌を指摘されるかもしれない、受けなければ癌だと言われることはない、だから検診や検査は受けない・・・何かおかしくない?私はこうした人たちを「感情で物事を判断するタイプ」と勝手に呼んでいる。検査を受けずに放置したままが一番怖いのは自明のことではないか。
ワクチンも世の中にはうがった見方をして反対論や恐怖を訴え「ワクチンなんて」とあらぬ方向に誘導する輩がいる。コロナワクチンや子宮頚癌ワクチンの時がとくにひどかった。ワクチン反対派の扇動には乗らないことが大事だ。帯状疱疹になって後遺症で苦しむより帯状疱疹ワクチン、特に高性能型のシングリックスは予防効果も効能期間もすぐれているのでぜひお勧めしたいね。
2026年3月25日水曜日
「あの日のふるさと」より「鹿大卒業式」
一昨日、MBCの「あの日のふるさと」での古い映像を元に日記を書いた。実はこれまでも何度もこのミニ番組をネタにしてきた。検索すると8回も取り上げている。古い順に列挙してみよう。ここ5年ほどは毎年のように取り上げていて、理由は「知人が出ていた」、「自分に関係ある映像だった」などが多い。
2015/7/21:高校野球100年わがふるさとのベストゲーム
2021/5/05:「あの日のふるさと」にうちが!
2022/1/20:「極寒の中、禅修行に励む寺の兄弟」とは
2023/1/31:これが鹿中央高の校風だっ
2023/6/9:「名前は長いが効き目は早い」
2025/5/23:「薩摩義士慰霊祭」よりも後ろの風景が気になった
2025/6/27:天文館を走る理由の違い
2026/3/23:48年前の鹿大合格発表
今日3月25日は毎年鹿大の卒業式の日で、私も1985年の同日出席していた。ただその頃は医師国家試験が4月上旬にあり、どちらかと言えば勉強の息抜きと同級生の顔見たさに出た記憶がある。今日の「あの日のふるさと」の映像では1991年、1989年、1965年の鹿大卒業式が取り上げられていた。1991年1989年には当時の学長で鹿大医学部元第三内科教授の故井形昭弘先生が訓示を述べていた。お懐かしい。
1965年といえば昭和40年。さすがに白黒フィルムの映像でそれ以上に学生の容貌、服装などが眼鏡に七三分けの髪型、スーツや詰め襟が多く、なにより男性ばっかしで女学生の数がほとんどなく数えるほどだった。平成に入った1989年は女学生も多く、またそのカラフルな袴姿にとても同じ大学の卒業式とは思えず隔世の感がある。袴姿での卒業式は昭和の終わり頃、「ハイカラさんが通る」というドラマをきっかけに流行りだしたそうだ。それで今日の卒業式の映像を同じMBCのニュースで見ると・・女学生の服装は単色の袴姿より華やかな色使いのものが多いようだ。カールによると着付け教室には借り物の袴を所望する学生さんが数名いて「ここだけの話、練習着の袴で数千円で済ませた人もいたらしい」とのことだ。いやはや、華やかさや堅実さ、時代とともに卒業式の様子も変わるものですな〜。2026年3月24日火曜日
年度末になると
朝出かける時に家の駐車場に並ぶ三台の車。私のプリウス、チッチのポロ、カールのゴルフ。白、青、赤で並びは違うがフランス国旗だぁ。
家を作るとき、駐車場は縦に三台入るように設計されていたが実際にそうなるケースは滅多になかった。まあ1週間もすればチッチが出ていくし、1ヶ月もすれば青ポロがなくなり赤ゴルフも新車の白ゴルフになる。期間限定のフランス国旗シーンでした(笑)。今日は午前中だけの仕事で内視鏡担当だった。このところ内視鏡での胃瘻造設が続いている。10数年前からの厚労省の方針で胃瘻造設が一病院あたり年間で実質50件未満しか造れなくなった(それ以上造設も可能だが実質無理な条件が課されている)。「今綺麗」病院のエイキDrに聞くと「うちは1月から12月までで切っていますが、毎年12月になると49件に達し、胃瘻造設が出来ずに年が明けるのを待っていますね」と苦笑する。350床の今綺麗と136床の青雲会がどちらも年間の造設件数49件以下にしないといけないというのは何か変だがそうなっている。
青雲会病院も毎月4名程度に調整し(4件x12=48)、年度末には50件を超えないように特に3月は気を付けている。昨年度は48件とぎりぎりだった。それが今年度は件数が少なく特に1月2月が少なくて3月に入った時点で34件程度とかなり余裕があった。そこで「胃瘻造設を検討している患者がいたら出来るだけ3月中に指示を出してもらえませんか」と各Drにお願いしたら「胃瘻お願い出来ますか」と次々に依頼があり、今月の私の週3回の内視鏡担当日は毎回胃瘻造設実施となっているのだ。これ、年度末の道路工事増加といっしょやな(苦笑)。
午後は帰宅前に国分スターレーンに寄った。頼んでいたニューボールの「アイオン・マックス・パール」が来たというのでドリル依頼のために「プロウラー」を預けたのだ。「できれば2日後くらいには出来ませんか」と頼んだ。ちょうど姶良郡医師会にその日行く用事があるから都合がいい。「ううむ、出来るだけ早めるようドリラーに頼んでみます」とスタッフの言葉に期待しよう。↓左が今の私のメインボール「プロウラー」、右の箱と下の画像が最新のボール「アイオン・マックス・パール」。
2026年3月23日月曜日
48年前の鹿大合格発表
いつもよりやや遅く18時40分過ぎに病院を出た。春分の日も過ぎてまだ明るい。普通に高速に乗って19時過ぎには帰宅出来るはずだったが・・。
鹿児島北インターの料金所を出て10mくらいのところで急に渋滞になり、車の動きがピタッと止まってしまった。ううむ、事故でもあったのか。まあしばらく待てば動き出すだろうと思ってTVモニターでチャンネルをMBCに変えた。ちょうど「あの日のふるさと」が放送される時間帯だったからだ。テーマは「鹿大の合格発表」だった。最初は1991年3月20日の映像で「ふーん」と見ていた。が、その次1978年4月3日の映像には思わず「うわっ!」となった。↓の画像にもあるようにその年は国立大学二期校として最後の合格発表だった。次年度から共通一次テストが始まり戦後の大学入試が大きく転換する直前の年で、今では一期校、二期校という概念を若い人に説明するのにちょっと面倒するくらい。
そえはいいとして、なぜ私がこの映像に釘付けになったかというと、自分が鹿大医学部に合格した年で、まさに上の写真のその場所、桜丘への移転2年目くらいの医学部の整備中の中庭に、父デンコーと発表の瞬間を待っていたからだ。そして↓の合格者番号の書かれた大きなパネル板を学部職員らが提示する瞬間は、発表の時の私の記憶とまさしく合致する。もしかして48年前の自分やデンコーが映っていやしないかとさらに目をこらした。しかし、この映像は歯学部の発表の瞬間だった。1978年は歯学部1期生受け入れの年だったのだ。久しぶりの国立歯学部新設ということで定員80名に対し800名以上もの受験者が殺到したそうだ。↓の合格者の3人はその後大学でなんか見たことがあるような・・。上の写真を見て、注目されていた合格発表の場にしては発表待ちの人たちがまばらな気がしないかな。実は発表時間が最初午後4時とか言われてたんだ。しかし午後2時だという情報もあり、私の学校の先生たちは午後4時だろうと情報収集に動いていなかった。しかしデンコーが「2時かもしれんから見に行こう」と、私を連れ桜丘まで行って待っていたのだ。合格者のパネルの中に自分の受験番号「919」番を見つけた時は「あった!」と思わず父親に抱きついたのを覚えている。そんなことをするなんてその時の一度切りしかない。当然、デンコーも喜び、というよりは興奮して右のズボンのポケットに手を入れ何かを取りだそうとして上手くいかない様子だった。ジャリジャリと音がして何かと思ったら手に10円玉をいっぱい握り占めていた。家や親戚に合格の一報を知らせるために準備していたのだった。喜び合っている私たちにどこかのTV局カメラマンが寄ってきてインタビューをしに来た。たぶんKTSだったかな。「誰に喜びを伝えたいですか」には少し考え「母です」と答えたのを覚えている(実際、あこネーサ母に私が直接伝えると「およ〜」とうれし泣きしていた)。そのニュース映像は夕方のローカルニュースで流れたと誰からか聞いたが、当時はまだビデオもそんなに普及しておらず一度も目にしたことはなかった。だから歯学部合格の発表瞬間とはいえほぼ同様の瞬間の映像を見ることが出来て嬉しくも感激した。
車はピクリとも動かない時間が長かった。TV画面を止めて、スマホをテザリングしてYouTubeの映像をあちこち見て時間をつぶした。ようやく少し動き出したのが20時20分。少しずつ前進して、事故が起きた坂道を通りすぎたのが20時43分だった。ワゴン車がひっくり返っていたわ。
帰宅出来たのは20時50分となんといつもは20分で済むのに2時間以上も掛かってしまっていた。ただ、48年前の感激の瞬間を見ることが出来たのは事故のおかげと言えなくもない。こうしてこてる日記ネタにもなったしー。ふふ、ここまで書いて、謎かけが浮かんだ。
「歯学部合格発表者と掛けてなんと解く」
「交通事故に遭ってひっくり返った車と解きます」
「その心は?」
「どちらも歯医者(廃車)になるでしょう」(⌒о⌒)。
2026年3月22日日曜日
本屋でめっけもん
やや遅い朝食の後、チッチと函館君は青ポロに乗って指宿方面へ向かっていった。デザートにカールがこの前田舎で星娘従姉にもらったサワーポメロを出して上げた。実家からもらったものに比べて種が多く、それをカールが丁寧に剥いて出すと、函館君「美味しい」って。蜜柑ってだいたいが南国のフルーツだもんね。
お昼時になる頃、カールが外食がいいとのことで、特にどの店にするか決めずに出かけた。「大阪王将は?」「昨日餃子食べたからいいや」「豚カツ、ラーメン、蕎麦、焼き肉・・」「うーん」となかなか決まらない。で、私がセンバツ特集号を買っておきたいとの希望もあり、城西TSUTAYA店を目指してみた。すると1ヶ月ほど前にも行った回転寿司「めっけもん」が目に付き、すでに12時半にもなっていたが入ることにした。前回は開店直前の午前11時前に行きそれでも30分近く待った。で、今回は?なんと12、3分ほどで席に着くことが出来た。グッドタイミングだったわ〜。2026年3月21日土曜日
チッチと函館君の卒業ドライブ
夕方、チッチが青ポロに乗って鹿児島に帰って来た。同じ大学の薬学部の友人「函館」君と運転を交代しつつ、岩手から日本海側を縦断し、5泊6日を要したのだった。岩手医大は入学後1年間は大学での寮生活が義務づけられ、10名ずつの1ユニットで行動をする。ユニットには医学部生だけでなく歯学部生や薬学部生も混じり、チッチの時は3人が薬学部生で函館君はその1人だった。ちなみに彼は函館市出身なのでそう呼んでいる。他にチッチと仲のいい医学部生には宇都宮君もいた(笑)。
青森、新潟、石川と走破し、石川の小松では日本自動車博物館など行き、貴重な内外の自動車展示を見たという。私がきっと興味を持ちそうな展示だったそーな。スマホでの写真を見ると、50年ほど前運転免許を取った頃の昭和時代の車も多数あり「おお、懐かしい」と声が出たわ。その後数時間だけ京都に寄って、鳥取、島根、山口を回ったということだ。「鳥取は何もない県(砂丘はあるが・・)」「島根は出雲大社(当然か)」「山口は下関の唐戸市場が良かった。フグの刺身も安くて旨かったしー」だったそうな。↓のフグの刺身がたったの千円!おお。最後に熊本に泊まったのは函館君が鹿児島はおろか九州が初めてだったからそう。また大学の後輩に熊本出身も帰郷していていろいろ世話してもらい、某有名店での熊本ラーメンでは売りの生卵入りは卵なしで食べたとか。ともかくこの機会を利用してあまり行ったことのない日本海側を見て回りたかったそうだ。ともかくも若いってことだ。函館君も次年度から某製薬会社のMRになることが決まっているそうで、お互い今月までが青春時代と言ってもいいだろう。夜はチッチが盛岡まで取り寄せて友人らに食べさせ、旨いって言ってくれていた「丸岡の餃子」がメインの食事で、特に函館君にはたらふく食べてもらった。↓の餃子の皿が合計4皿。すごいでしょ。
明日は二人で指宿方面にドライブに行くそう。暖かい鹿児島を満喫してもらいたいネ。2026年3月20日金曜日
中古品売って新車買う?
2026年3月19日木曜日
どうでもいい「甲子園同じ対決」シリーズ
WBCが終わったと思ったら、今度はセンバツ高校野球だ。それが終わる頃にはメジャーリーグも開幕、無論プロ野球も始まる。野球ファンには息つくヒマを与えないね。
さて、今年のセンバツは九州沖縄からの選出が多い。普段は4校だが明治神宮大会に九州代表の九州国際大が参加し優勝したので1校参加枠が与えられ沖縄尚学が選出された。それと21世紀枠でも長崎西が選ばれたため計6校も選ばれている。沖縄尚学は昨年夏の優勝とエースの末吉君がいるのが選ばれた大きな理由だろう。大会関係者も似たような戦歴ならばネームバリューの大きい沖尚を選びたくなるよな。長崎西はというと高校野球オタクには1981年の名古屋電気の工藤公康にきりきり舞いにやられノーヒットノーランを喰らった弱小校として記憶されている(その後甲子園に出られないことから『工藤の呪い』とも言われている)。
後にプロになって高校野球時期になると工藤のインタビューが紹介され「投げてみて相手チーム(長崎西)は愛知大会の3、4回戦レベルだなと思った」という記事が出てくる。あの頃はぽっと出の公立校が甲子園にも出ることがままあった。昭和50年代までは夏の甲子園もまだ公立校が私立校よりやや多かった時代だ。それに長崎西ってもろ進学校で鹿児島で言えば鶴丸クラス。私の医学部同期にもそこの卒業生がいたくらいで、そうそう滋賀県のナンバーワン公立校の膳所(ぜぜ)校出身もいて入学した年(1978年)の夏に甲子園出場をしている。そんな時代だった。長崎西はあの年の夏以来45年ぶりの甲子園が決まり、工藤から金属バットもプレゼントされたらしい。今度は絶対にヒットを打つと打撃練習に力を入れているとか。長い歴史を誇る甲子園大会ゆえにそんなエピソードにも胸が熱くなる。
対戦表を見ると、「おおっ」と思うのが、大会3日目の東洋大姫路(兵庫)対花咲徳栄(埼玉)だ。この2校の対戦も高校野球オタクなら知らないものはいない。2003年のセンバツでの準々決勝、初出場の花咲徳栄と東洋大姫路は0対0で延長に突入するも2対2で15回引き分け、翌日の再試合でも延長に入った。結局延長10回6対5で東洋大姫路がサヨナラ勝ちするのだが、2試合続けて延長という初めてのケースにセンバツ名勝負として記憶され、その後センバツ期間中のNHK「センバツ球春譜」でも毎年紹介されている。その年の閉会式でも大会関係者の総評で「花咲徳栄は結果は負けたけれど大きな花を咲かせました」と持ち上げられていた。その後、花咲徳栄は強豪として名をはせ、2017年夏には初の全国優勝も成し遂げる。東洋大姫路はその後やや低迷したものの最近元履正社の岡田監督が就任して甲子園にもよく出るようになってきた。また、東洋大姫路は甲子園大会期間中にそのレギュラー選手と自分が個別に会話したことのある唯一の学校でもある。2006年の夏の大会を観戦に行った時、泊まったホテルが偶然いっしょで、夜に素振りをしていた某レギュラー選手とばったり出会い、一言二言話をしたのだった。
大会4日目の神戸国際大対九州国際大も興味深い。なんてったってこれは初の国際大同士の対決じゃないか?これまで三重海星対長崎海星対決(1972年夏1回戦、1989年夏2回戦)があって結果は1勝1敗、同大学系列では日大三対日大桜丘対決(1972年春決勝)、智弁学園対智弁和歌山対決(2021年夏決勝)、東海大甲府対東海大相模対決(2021年春1回戦)、東海大二(現:熊本星翔)対東海大一(現:静岡翔洋)(1983年夏1回戦)があり、いずれも後者が勝っている。他にもほぼ同名でいえばここ最近最強学校として名が上がる大阪桐蔭だが、甲子園の歴史で言えばまだ新参者であって、和歌山の桐蔭高校が夏の大会初の2年連続優勝をしたことで知られている。ただし大正時代1921年1922年の和歌山中時代のことだからオタク以外は知らないって言ってもいいか。さらに神奈川には最近はあまり出てこないが桐蔭学園(1972年夏優勝)がいる。この桐蔭対決は私の記憶では春も夏も一度もないはず。今後に期待したい(笑)。2026年3月18日水曜日
あのバットフリップで勝てたはずが・・
いや〜、WBC決勝、アメリカ対ベネズエラ戦、チラチラと途中経過はチェックしていたがベネズエラ2点先行でアメリカがなかなか打てていない状況だった。午前の内視鏡検査が一段落したころ、戦況は8回裏でまだ0ー2でアメリカが負けていた。と、2アウトランナー1塁で打者はブライス・ハーパー。こんな時ハーパーは何かやってくれそうと見ていたら、打った瞬間それと分かる2ランホームラン。いや〜、ハーパー、役者だよー。ホームランと分かってのもんのすごいバットフリップ!ここまでド派手なバットフリップは見たことない。
アメリカは選手も観客も一気に盛り上がった。ただ、この後アーロン・ジャッジが打てば・・。だがジャッジは低めのボールを見逃し三振。うん?何かイヤな予感。案の定、9回表にベネズエラに1点勝ち越され、そのままベネズエラの優勝になった。何だったんだ、あの盛り上がりは。あそこで一気にホームラン打ってアメリカの優勝ならハーパー、ジャッジとMVPコンビのホームランが伝説になったはず。あのバットフリップが勝利の象徴となり、ハーパーのバットにはとんでもない高額な値段が付いたことだろう。それにさー、私の予想は割によく当たってたのよ。先日、ベネズエラは勝ち上がってもアメリカもしくはドミニカには勝てないって言い切っていたの。どうしてくれるぅ。アメリカとベネズエラといえば、年頭のアメリカによるベネズエラ政権転覆事件だ。政治も経済も圧倒的な格差があるのに野球はベネズエラが勝った。なんとも皮肉な・・。出場している選手らはほぼメジャーリーガーだったしベネズエラにも確かに力はあった。ベネズエラ国民にしたらこんな痛快なことはない。で、翌日は祝日の休日になるらしい。おめでとう、ベネズエラ。
国別対抗のトーナメントはやはり面白い。今年はスポーツイベント盛りだくさんの年でサッカーワールドカップもある。日本は今度こそベスト8進出、いやベスト4進出を果たしてくれぇ〜!
2026年3月17日火曜日
あれから11年
ふう・・チッチが国試合格し4月からは晴れて研修医から勤務を始める。私とカールの子育てもこれで一段落した。テルやセージはすでに社会人として県外で働いているし、セージには結婚して子どももいる。チッチが卒業後鹿児島に戻って来るかどうかははっきりしなかったが、運良くか運悪くか、第一希望の沖縄の那覇市立病院はマッチングで受からず、第二希望の鹿児島医療センターになった。これで少なくとも2年間はチッチが近くにいることになり親としてはなにかと有り難い。
チッチは高卒後すぐに福岡の全寮制予備校に入り、3年後に遠い岩手にまで行き、それから8年、どちらかと言えば思ったより早かった気がする。最初の1、2年は大学の方針が急にきつくなり留年者が大量に出て親も子もストレスが大きかった。しかしそこで鍛えられ、3年生以降は進級も順調で、成績も徐々に上がっていき、最終学年になると「今の成績なら国試もきっと大丈夫」と安心して見ていられるほどになっていた。中学高校時代はほとんど机に向かって勉強する姿が見られず、成績も特に高校時代は下位安定だったチッチがこんなにも成長するとは。
大学合格の際、3年間お世話になった福岡の医療系専門の全寮制予備校から「保護者の声」を書いてくれと頼まれ、親から見た長文の合格体験記をメールで送ったものだ。たまに読み返してみると、我ながらよく書けていて、8年経った今でも掲載されている。さらさらと書き進められ、そんなに四苦八苦して書いた記憶はない。これも日頃こてる日記を書いているおかげかと思う。興味ある方はその予備校のホームページの「保護者の声」欄のどこかに私の書いた体験記があります。→https://dazaifu-academy.jp/features/voice_parent/
それにしてもほんとに良かった。チッチの浪人開始の頃は医師にはなれない可能性が半分くらいあるかも、なんて思っていたのだから。↓は予備校生活直前の頃、親子3人で吉野公園に桜と桜島を見に行ったときの写真で、チッチの表情がずっと強ばったままだったのが印象に残っている。にこりともしておらず終始暗い表情だったのだ。
2026年3月16日月曜日
合格
いつもよりも仕事が長引き、遅い昼食を摂った後、私は院長室で眠りこけていた。だから14時を過ぎてカールからスマホに電話が掛かってきたことにも気づかなかった。午前の仕事が長引けば、内視鏡室スタッフも午後の内視鏡検査を15時以降に遅らせてくれるので助かる。目が覚めてそろそろ午後の大腸内視鏡検査へ行こうかなと思って、たまたまスマホを見て「はっ!」となった。
あああー!何ていうこと、すっかり忘れていたよー。でも、やったぁおめでとう!だっ。今日の14時にチッチの医師国家試験の合格発表があったのだ。今朝まではちゃんと覚えていて「自己採点で『大丈夫と思う』と言っていたからきっと通っているんだろう」なんてカールと話していたのに、いざその時刻になったらウトウトと眠りこけていたなんてー。15時10分にすぐに返信すると、今度は「市役所終了」とのコメントが返ってきた。
カールは14時過ぎてもチッチ本人から何の連絡もなく、といってもわずか5、6分のことなんだがドキドキ、喉はカラカラ状態だったらしい。それでチッチに確認のメールをしたら「合格したよ」と合格番号の写メが返信されてきたという。で、すぐに私に転送して電話もしたのだが、何の反応もなかったので、構ってられないと事前に頼まれていた医師免許申請手続きのために鹿児島市役所に行ったのだった。というのも、合格したら速やかに医師免許申請(医籍登録)を行う必要があり、基本的には住民票のある市役所(区役所)で住民票(抄本)を取得し、その後、居住地または研修先病院の所在する保健所へ申請書をする流れで、市役所に着くとカールの前にすでに鹿大医学部生の男女カップルと思われる2人が申請に来ていたという。カールは彼らに申請のことでいろいろ尋ねたら、医師免許申請用の収入印紙が必要と知り、すぐに東郵便局に行き6万円のものを購入し手続きを済ませたという。それで「市役所終了 午後3時13分」との返信があったのだ。2026年3月15日日曜日
WBC日本対ベネズエラ
朝10時からWBC準々決勝日本対ベネズエラだよ〜。カールが近くのAコープに買い物に行ったら、まだ10時前は客が多かったが試合開始の頃から急激に客がいなくなって駐車場もいつもの3分の1程度に減っていたそーな。
初回のベネズエラの攻撃でアクーニャJrがいきなりホームランかぁ。しかしその裏で大谷がホームラン返しと、以前のヤンキース対ドジャース戦を思い出したわ。大谷、役者やのぅ。先発の山本は2点を取られたがその後ずるずると行かずにこらえたのはさすがだった。そして阪神の佐藤と森下が活躍し、特に森下の3ランホームランで一時5対2になった時は日本中が「行ける!」と湧き上がったはず。
しかしねぇ、中継ぎ陣が今回はダメだったナ。カウントを悪くして直球をホームランされた。伊藤大海も140km台の球速じゃ抑えられないよなぁ。いつもは日本の投手陣が抑えて勝つパターンが今回は上手く行かず、打者もメジャーリーグ陣に比べて若干日本プロ野球陣は見劣りした。それと相対的に中南米、アメリカなどメジャーリーグが多く参加するようになっていて力が上がってきている。今回の日本はたとえベネズエラに勝っても優勝は無理だった気がする。まあ、それでも決勝までは行って欲しかったナ。試合が終わって、私もカールもぐったり。しばらく何かをやる気も起きず、ソファで昼寝としけ込んだ。日本全国似たような野球ファンが多かったことだろう。Netflixを即解約した連中もかなりいたかも。私は元々ドラマや映画を見る気があったのでそのまま契約を続行するが・・。WBCは明日の準決勝でアメリカかドミニカの勝った方が優勝するだろう。ベネズエラ、イタリアはどっちが勝ち上がってもこの2チームには勝てない気がする。ずっと戦い方を見ていれば素人でもだいたい分かるものなんだ。この文章が正しかったか、また日記ネタにしよう。
2026年3月14日土曜日
良知の49日法要
2026年3月13日金曜日
吉俣良と鎌田紳一郎
朝の外来には医師事務作業補助者の君やさんが付いてくれた。決まり切ったカルテ記載がすでに彼女によって書かれているので大いに助かる。ちょうど患者さんが途切れた頃、彼女がこんなことをこぼしていた。
「あのオウム真理教の歌、『♪ショーコー、ショーコー、ショコショコショーコー』をですね、うちの5歳の長男がしょっちゅう歌って困っているんですよ〜」→YouTube「麻原彰晃マーチ(選挙)」https://www.youtube.com/watch?v=S8_2ukXyM-Y人前では今でも歌わない方がいい。
はぁ。今どきの子どもが30年以上前に歌われたカルト宗教の教団歌を知っているはずがないじゃない。何で?
「私が鼻歌交じりに歌っていたのを覚えてしまったんですよ」だって。へーえ。ちょっと前だったか、この世間に流布した歌の作者が「高校の同窓生だったんだ。鎌田紳一郎って言うんだよ」と彼女に教えていた。それで彼女も思い出して鼻歌にしていたそうだ。↓が卒業アルバムの鎌田紳一郎。
鎌田はWikipediaにもちゃんと出ていて「麻原彰晃マーチ」の作曲者と書かれている。天保山中、鹿児島中央高、東京音楽大学卒業後、フリーのミュージシャンになり、太極拳やヨガが趣味で、本を読み漁っていた際に麻原彰晃を知りオウム神仙の会に入信し、1987年6月に出家した、とある。最終的には1999年12月にオウム真理教を脱会したそうだ。↓の写真は衆議院選挙運動中の鎌田であると文藝春秋のサイトに出ていたものだが、顔が隠されているので誰が鎌田かは不明。おそらくマイク前の人物だろうか。鎌田は「麻原彰晃の愛人で3人の子どもをもうけた教団幹部の石井久子が逮捕されたため翌日付で彼女と結婚し石井の子供たちが保護者不在となる事態を避けた」そうだ。それでWikipediaには「石井紳一郎」で出ている。ふーむ。ともかくも彼の作った「麻原彰晃マーチ」は冒頭の部分が極めて覚えやすく、特徴的なメロディに影響を受けた小学生が教室でリコーダーやピアニカ、ハーモニカを使ってこの歌を耳コピして演奏することや、登下校の際に口ずさんでいることが報道され問題となった。松井秀喜などこの曲が頭から離れなくなり、バッターサークルに立っているとき常に歌ってしまっていたという(Wikipediaによる)。2026年3月12日木曜日
こんなクソ配牌が・・
麻雀は偶然が大きく関与もするが確実に実力も反映される飽きの来ない素晴らしいゲームだ。1979年の晩秋に医学部バスケ部の友人らに教え込まれ、1980年からは率先して打ち始めて46年にもなろうというのに、いまだにネットやリアルで打ち続けている。
今日も明け方早くに覚醒し天鳳を打つと「こんなこともあるんだな」という場面に遭遇した。それは東の4局で自分の親を迎えたはいいが、配牌を見て少々落胆した場面だ。まあ見てよ、この配牌(下図)。8種8牌で流局させることも出来ず、面子も1つもない。ドラの2ピンが1枚あるもののカンチャンが2つで聴牌まで6向聴というおそらくは麻雀で一番ひどい手だ。麻雀をよく知っている人ならば分かってもらえるだろう。麻雀プロの第一人者の多井隆晴なら「配牌オリ!」ってきっと言うだろうな。「こんな手で上がろうなんて思うな」とも。
しかしそんなに点差も開いていない3位なので打南としてまずは様子をみた。ツモが思うように来なければ安全牌を抱えつつ、それこそオリに回る腹づもりだった。ただここからのツモの来かたがなかなかのものだった。4索が来て打1索。3巡目にドラの2ピンが来て対子になった。このあたりで少しやる気が出た。役牌を重ねればポンしてドラドラの親の5800点というそこそこの手になる・・。さらに4巡目に5索を持って来て一面子が出来た。そして打西↓。
まだカンチャンが2つもあって苦しい手格好だ。この時、妙に安全を意識して打9ピンとしないでおこうと思っていた。この手に7ピンが入ると一気に手牌が広くなりリーチも打ちやうくなるからだ。そしてその次、本当に7ピンが来たのだ。切るのは発か白だが場に1枚出ている発を切った↓。あの6向聴のクソ手がドラ2枚の2向聴と一気にチャンス手になっている。そしてさらに次、びっくりしたのがドラの2ピンを持って来て暗刻になったことだ。おいおい、親マン以上の手になったヨ〜。↓に全体図を載せるが、7巡目にトップ目の対面がチーしてタンヤオドラ1の手をすでに聴牌していた。そして次に持ってきたのが4枚目のドラ2ピン。びっくり。ここは当然2ピンを「槓!」だっ。で、持って来たのが6ピンでここで聴牌。無駄ヅモが4巡目の9索のみというとんでもない絶好ツモだった。しかもドラ4の親リーチ!待ちは5万を切っての間2万待ち。もろ引っかけだが子方は待ち牌を読みようがなく、これはかなりいい待ちのはずだ。そして次のツモの4ピンを下家が鳴いての10巡目、簡単に2ピンツモ!リーチツモドラ4裏ドラ1の親ハネマン6千オールの+18000点で一気にダントツになった。改めて配牌の手を見て欲しい。こんな結果はとても予想出来ない。麻雀には時にこんな下克上のようなことが起きる。先月末、7半荘やってラス6回という地獄のようなモードに入って1200Pあったポイントが一気に480Pまで落ち五段降段がチラついたが、最近また盛り返して来ている。ツキのばらつきで良い時も悪い時もある麻雀。丁寧に打っていれば今日みたくプレゼントのような展開もあるのだ。雀歴50年を目指してまだまだ打ち続けますよ〜。





















