2024年12月31日火曜日

今年は次男宅で年を越す

 2024年もとうとう大晦日を迎えた。

振り返ると個人的には大きなイベントがあった年だった。3つほどあり、4月の院長就任、5月には初孫誕生そして11月のギボヒサコの死去だ。ただ、いずれもある程度予想の出来る変化ではあった。すなわち年を重ねれば起こりうる事態であったということだ。

趣味やレジャー、旅行で言えば、半年以上を大谷翔平の活躍をTV、ネットで追っていて、こてる日記ネタでも一番取り上げられていた。リアル麻雀は月2回程度コンスタントにやっていたが、ネット麻雀は前半は毎日のようにやっていたのに後半はピタッとやらなくなった。ボウリングは年で3回くらいという低調ぶりでこれが2年以上続いている。囲碁も対戦はゼロ。ただTVやYouTubeではちょこちょこ見てはいる。あ、ボウリングも観戦についてはTVでPリーグ、日本のプロの決勝戦などYouTubeで見てはいる。韓ドラ視聴は9作品でまあまあかな。前年が12作品、その前が19作品だった。だんだん減って来ている?そんなことはなくて、3年前はたった5作品。しかし4年前は38作品も視聴していた。その年は新型コロナが日本でも発生し日本人全員がコロナ引きこもりを経験した年だった。あと、旅行らしい旅行はしなかったなー。

そんな1年を振り返るのは後にして、実は朝暗いうちからカールと鹿児島空港へ急いでいた。年末年始を船橋のセージ宅で過ごすためである。自宅で過ごさないのは2年前の沖縄の別宅の時以来だ。テルやチッチも今年は忙しくて帰省出来ないし、唯一家庭を持っているセージのところで孫の顔見たさもあり行くことになった。2年前同様、お節料理のパックを薩摩蒸気屋の大きな紙袋に入れてである。天気は最初雨も徐々に晴れ、飛行機が飛び上がった頃は高千穂峰や都城市街など綺麗に見えていた。都城では真下にジェット機が飛んでいて少しびっくり↓。
宮崎の海岸まで眺めていたが、その後は眠くなって、気がついたら東京湾の風景になっていた。そして無事着陸に成功し(少しホッとはする)、電車乗り継いでJR船橋駅に着き、そこには東武百貨店があり中華飲食店で昼食を摂った後、セージ宅へ向かった。

着いたら、早速ココちゃんのお迎えだ。玄関で誰だろうて表情でこっちを見ていた。その後、カールや私も抱っこをした。嫌がらずに抱っこされるんでいいな。
生後7ヶ月半でハイハイも出来るようになっていて食事は離乳食とおっぱいが半々か。上下の歯も生えてきている。赤ちゃんの成長は早い。

夕食はもつ鍋にしばらくして年越しソバ。珍しくウィスキーもあってほんのちょっぴりロックで飲んだが私にはややきつくその後炭酸を入れハイボールにしてコップ半分飲んだ。
カールはビールの後にウィスキー飲んだせいかほっぺが赤ちゃんみたいに赤くなっていた。そして早めにダウン。私もうつらうつらし気がつけば年を越していた。紅白でB'zが初出場とのことでそこだけタイムシフトで巻き戻し、セージと見た。B'zの曲は朝ドラの主題歌を歌っているそうだが見ていないので知らない。しかしサプライズで2曲追加され、最後に私が唯一知っている曲「ultra soul」が聴けて見られて良かった。

疲労もありそのまま寝たいところであるが、こてる日記をまだアップしていなかった。2日遅れなので12月29日の韓国での航空事故のことを書いてやっと眠りにつけたのであった。

2024年12月30日月曜日

ハタ坊交えて歯医者さんらと会う

今夜は歯学部の友人たちとの懇親会が中央駅近くの居酒屋「炉端 修」であった。この前胃カメラと大腸内視鏡を受けたダイスキから栃木からハタ坊が来るので来ないかとの誘いがあったのだ。ダイスキとハタ坊は1978年の鹿大歯学部1期生で私とは鹿大医学部バスケ部入部もいっしょだった(他に今回は不参加のさあいっしょ君もいた)。ハタ坊と会うのはデス川の結婚式以来35年ぶりくらいだ。

当時の歯学部は出来たばかりで、部活動が全く組織されておらず、歯学部生たちは最初の2年間医学部の各部に入って活動していた。私はバスケ部に1ヶ月ほど遅れて入部し、すぐに彼らと仲良くなった。医学部からは私以外に数人いたがみなすぐに辞めてしまって、夏の合宿の頃は1年生は歯学部3人医学部1人の4人だけになってしまっていた。2年生になると歯学部2期生として泣かん咲き、ブラックツリー、平成君などが入ってきて当然彼らとも仲良くなった。そうすると他の歯学部生とも友人が増えていき、父デンコーなどは「テルは歯学部生しか友人がいないようだが大丈夫かぁ」などと言っていた。週に3回欠かさずいっしょにバスケの練習をし、その後もいっしょに遊んだりしていたのだから、それは当然のことで私は気にしていなかった。

2年生になってダイスキ、ハタ坊、さあいっしょの3人は麻雀にハマっていった。今からすると信じがたいことだが、最後まで麻雀をしようとしなかったのは私だった。高校の頃、先輩の九大生がやって来て「大学生になったらな、麻雀はしない方がいい。やったらと留年をする」と忠告してくれたのでその教えを守っていたのだ。しかし、いっしょに遊んでいた3人が部活が終わった後、麻雀に走り、私とは遊んでくれないようになった。2年生も後半に入った頃、部活終わりにハタ坊のアパートにいっしょに行き4、5人で麻雀をするのを私は見ていた。見ていてもやる気は起きず、マンガ読んだり他のゲームしたりしていつの間にか寝てしまっていた。気がつくと翌朝で私とハタ坊だけになっていた。帰ろうとする私をハタ坊は「こてる、ここに座れ」とこたつ兼テーブルをはさんで麻雀牌をそろえ始めた。「いいか、麻雀のやり方だが・・」と4面子1雀頭はこうして作ると、麻雀の基本中の基本を教えにかかったのだ。麻雀歴44年、私を麻雀に引き込んだ犯人はハタ坊だったのだ。

それからというのもの、部活の終わりにハタ坊の部屋で4人で私への指導を兼ねた麻雀が続き、私はゲーム進行やルールなど少しずつ覚えていった。1、2ヶ月する頃には私が一番熱心になっていたかもしれない。翌年1月の成人式の日、同い年のダイスキと私は式参加の後、雀荘パールにいた。そこでダイスキが麻雀入門書を持っていて私に貸してくれるという。田中健二郎という麻雀プロのはしりの人が書いた本で私はこれを2日で読み切って点数計算、符計算など麻雀の小難しいところを全部覚えた。点数計算など麻雀を何十年やっても覚えない人がいるが、既に実戦をこなし興味がピークに達していた私にはすいすいと入って来た。ただ、案の定というかその後1年だけであるが留年をする羽目にはなった・・。

今日の参加者の2年後半からバスケ部に来た2期生イニシキ、1期生のデス川、ミドル、せっちんなど結局全員と麻雀をやり合った仲だ。今日は娘が帰郷していて来られなかったが未だに麻雀で付き合いのある1期生のジャズ魔もその仲間だ。せっちんがジャズ魔から正真正銘の国士十三面待ちを上がった場面を私が言うとせっちんはやはり覚えていてくれた。他、私が生まれ初めて上がった役満小四喜はダイスキから「西」単騎で上がったことなども出てきた。参加者全員8名の共通項は麻雀であった。↓集合写真。「こてるが一番若い」とはみんなの一致した評価だったね、エヘン。私のすぐ下がハタ坊。右がデス川。

ハタ坊は栃木の某市歯科医師会の副会長をやっているという。この前の歯学部1期生同窓会には参加出来なかったらしいが、ダイスキがそのことをマイクで同窓生に言い「レセプトの審査もやっている」と付け加えると「ほう〜」だったそうで、ぬぼぅとしていて2年留年もしていたゆえにみな驚きの反応だったそうだ。彼の奥さんは歯学部の後輩で私も知っていて鹿児島市出身だ。子どもは1人いて医者になっているとか。最近の彼はゴルフ専門らしい。日焼けしているのはそのせいだな。

皆65歳から66歳でそろそろ老人病(目が見えない、耳が遠い)などの話題があるも比較的「病気自慢」が少なかった。ハタ坊も奥さんの実家の鹿児島に年に1回程度は帰って来るそうだからこの際とLINE交換もしておいた。そういえば今年はミニ同窓会みたいな会合が例年に比べ多かったな。元気で会えるのが何より大事だ。これからもこうした集まりにはなるだけ参加しておこう。

2024年12月29日日曜日

空港で事故が起きたら

今日は丸1日何も予定や計画を入れていなかった。

朝のニュースで、韓国で飛行機が事故を起こしたらしいと聞いていたが、当初まさかあれほどの大事故だったとは思わなかった。昼前のニュースで、生存者2名というのは変わらないけれど、報道機関やネットニュースでも被害者数がまちまちだったのが不気味だった。YouTubeで胴体着陸後の衝突の瞬間動画がアップされているのを見て「こりゃ全員死亡、いや2名生存者がいたのが不思議なくらいだ」とため息をついた。カールは「胴体着陸するつもりなら燃料を捨てるか減らすために旋回とかするはずなのに」という。「お前、詳しいな」「助かった飛行機のドキュメントドラマなんかでよくやっているから〜」だって。その後、夕方には最後尾にいた乗員2名以外の179名全員が死亡と報道された。ああ、やっぱり・・。

事故原因がバードストライクだとか機械の故障だとかまだはっきりしていないし、対策も燃料を減らすか落とすかもなぜ出来なかったかあるいはしなかったのかも不明だ。あの胴体着陸をしている数秒間、機内の乗員乗客たちはみな生きていたんだ。そう思えばただ痛々しい。NHKをはじめ報道では衝突の瞬間動画にはストップがかかりショックを与えない配慮がなされていた。不特定多数の視聴者が見ることを考えればそれで良かったと思う。

思えば今年は年頭に羽田で海上保安庁の飛行機と日航機が接触衝突し大炎上となり、TVでは生中継されハラハラした。1時間ほどして日航機側は全員脱出し無事であったと聞いた時はホッとしたのと驚きさえもした。そして海上保安庁側は残念ではあった。

もし鹿児島空港でこのような事故があったなら・・実は私は姶良郡医師会の医療スタッフとして最初に傷病者のトリアージと救護をすることになっている。そしてDMAT(災害派遣医療チーム=Disaster Medical Assistance Team)が到着し引き渡すまで対応するのだ。空港が姶良郡のど真ん中にあるため、空港の事故訓練でも最初に駆けつけられる医療スタッフとしてそう位置づけられている。この10年ほどは5、6回訓練には参加していてこてる日記にもその様子を書いている。全くの他人事ではないのだ。

今回の事故でも韓国の光州市や近隣の医療チームが空港に向かったという報道もあった。それについてはほとんど注目されていないが、私は「ああ、韓国もいっしょだ」と思った。しかし生存者が2人ゆえすぐに救急車で病院に運ばれたはずだから、幸か不幸か災害派遣の医療チームが出来ることはほとんどない。訓練や準備はしておくが何もすることはない、これが一番いい状態だ。何もすることがなかったけれど、ニュースを見て少し気を引き締められた1日であった。

2024年12月28日土曜日

渡辺恒雄という人物

NHK総合で「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた」の再放送があって視聴してみた。これは2020年から2021年にかけて読売新聞社トップの渡辺恒雄へのインタビューを行ったものの再放送で「昭和篇」「平成篇」とそれぞれ1時間40分のボリュームがあるロングインタビュー番組だった。最初に昭和篇を未明に生で見つつその日のこてる日記を書いていたら、番組の方が面白くて日記のアップが明け方までずれ込んでしまったほどだ。
渡辺は東大の文学部哲学科に入るも1945年に学徒動員で陸軍へ二等兵として徴兵されるが、そこでの理不尽な暴行、悲惨な実態を体験し、元々反戦争思想だった青年は大の戦争嫌い、反軍国主義・反国家主義への姿勢を強める。終戦後はしばらくして東大へ復学し、自分の思想、信条に合うと思った共産党へ入党を申し込み、ビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験するなどし2年後1947年に正式に党員として認められる。しかし、同年9月のカスリーン台風の被害に対する党の見解、姿勢に疑問を感じ、脱会を申し込むが結局除名されてしまう。ただ「人びとを組織化する方法」などその後に役立つ経験もしたということで共産党での経験は無駄ではなかったという。

このあたり、12月17日の日記「ウォルター・ルーサーを知っているか」のルーサーと相通じるものがある。ルーサーは貧しい環境から抜け出すためにデトロイトの自動車会社に入るが、会社を解雇され、そこで「世界を見てみよう」とヨーロッパに渡り、ドイツとソ連に行き働いてもいる。当時ソ連は古くなったフォード社の車の製造機を買い取ったがその機械を動かす技術者が不足していたためルーサーは仕事にありつけたのだった。そして彼はファシズムと共産主義、全体主義のよくない点を実感したのちアメリカに戻って来るのだ。

朝日新聞は不合格で読売新聞に採用され、当時共産党が山村工作隊といって山奥の奥多摩に非合法極左テロ組織のアジトに単独で近づき取材をし、それがスクープとなりその後政治部記者となった。なかなかの行動派だわな。この山村工作隊は後で言えばオウム真理教のアジトとほぼ変わらないもので、工作員らは近づく渡辺を警察のスパイと思い「殺そう」としたが、リーダーの一人の後に作家となる高史明(コ・サミョン)がそれはよくないと周囲を思いとどまらせたという。

それからの渡辺恒雄の活躍には目を見張る。吉田茂から鳩山一郎と体を張って近づき相手の懐に入るのが得意だったようで、特に当時の派閥の領袖だった大野伴睦にはほとんど専属秘書のような役割も担っていた。今じゃちょっと考えられないな。その大野と仲のよくなかった中曽根康弘とを結びつける役割も果たしたり、大野亡き後はその中曽根と昵懇になる。さらに日韓の国交正常化にも大野や大平正芳らと韓国に渡り、大平と当時の韓国ナンバー2の金鍾泌(キム・ジョンピル)との交渉のメモをすっぱ抜いてスクープにしたりもしている。

いや、まだまだ面白いエピソードがいっぱいで書き足りないくらいだが、興味ある人はNHKプラスでも見られるかも。私はしばらく録画を消さずに保存しとくわ。「政治部記者が取材対象である政権中枢に入り込んでは公正な取材や報道が出来ないのではないか」といった批判については「懐に入り込まないと良いネタは取れない」と言い、それで政治家に「自分が正しいと思う」方向を分かってもらう、そう仕向けるといったことが面白くやりがいが出るということのようだ。そんな記者と政治志向が渾然一体となった人物で、かつかなりのリアリストであった。彼が98歳の死ぬ間際まで読売社内で「主筆」として論説の中心にいたということも驚きであり、一言で言って「傑物」だった。それこそ「巨人」だったと言い替えてもいい。

靖国問題(首相の参拝については大反対だった)や野球界への取り組み(本人は野球のことはあんまり知らないが勉強はしていた)などもネタにしたいが、相手が巨人ゆえに1日の日記ネタでは語りきれない。いつかまたチャンスあれば書こうか。

2024年12月27日金曜日

昔青雲、今まで青雲

例年は12月29日が仕事納めが今年は今日でお終いだ。休みが多くなるのはまあ嬉しいけれど、受け持ち入院患者が多いので指示出しが結構やっかいだ。中には明日明後日にも命尽きそうな重症患者もいる。そんな中、外来業務もこなさなきゃならない。

と、某老人施設から車椅子で受診してきた御老人、その付き添いの看護師を見て驚いた。かつて青雲会病院に勤務していたピノキオNsではないか。「あれ〜鹿児島にいたのぉ?」「ええ、帰ってきてます」とのこと。確か4年前に結婚して大阪に行ったはずだ。「子どもは?」と尋ねると「今、2歳で可愛いですよ、とっても」とスマホで写真をちらっと見せてくれた。ほうほう、子どもは可愛いよねぇ。子どもが生まれた時にはピノキオのグッズをたくさん周囲からもらったそうで、というのも結婚して名字がピノキオに変わったからだ。いや、正確にもそうではないのだがパッと聞くとそう聞こえるんだ。

昨今の看護師不足の中、また青雲会病院に復帰してほしいものだが育児もあれば無理強いは出来ないか。でも元気そうで何よりだった。

午前外来を終えて、病棟に上がろうとしたら今度はこれも元青雲会病院Nsの竹の香さんとばったりあった。彼女も老人施設で働いていて高齢男性の付き添いで来院していた。「いやー、またこてる先生、写真を撮ってぇ〜」と写真に収めたのが↓だ。彼女は学生時代に青雲に研修に来た時から知っていて20年来の知り合いだ。夫とも青雲会病院で知り合い、私は結婚式にも出席した。どうも病院勤務を辞めた後はみんな老人施設での勤務が多いようだな。

夕方は今日が最後の勤務の村鉱先生が外来でお別れの挨拶をしていた。村鉱先生は「もう83歳ですから」と言っていたが私はもう少し年を取られていたはずと思って確かめたら、今月で満84歳が正しかった。2015年5月から内科外来を診てくれていて最後の約2年は老健施設長を務められた。医師としても今日が実質最後の仕事だったんだ。
医師は身体が元気なうちは80歳代半ばまで働ける。村鉱先生を見たら、自分はまだまだ先のことだと思っていたが20年はあっという間だな。1年1年を大事にしていかなきゃって思ったよ。

2024年12月26日木曜日

ケーキかぶり

今年はでっかいクリスマスケーキが届いた。

うひー、パクついちゃうぜー。クリームも甘くで美味しい!カールも珍しくたくさん食べていた。そして「一番これが好きで隠れてでも食べたかったのはギボヒサコね」と旧ヒサコの部屋の霊前にお供えをした。私は今朝も朝食代わりにケーキを食べたが・・。さすがに全部は食べきれずに病院に持っていった。院長室に近い医師事務作業補助者と地域連携の部屋に行き、「ケーキ半分だけどみんなで食べてー」と持っていった。そしたら「あら、私今年はまだケーキ食べていないー」とか「うれしいー」などとえらく歓迎された。↓は喜びのポーズの作業補助者山の神さん。

おお、これだけ喜んでくれたら持って来た甲斐があったというものだ。実は内視鏡室に持っていこうかとも思ったが、あまりこの手のお菓子類を持って行けない部署がいいだろうとも思ってここにした。それで内視鏡室には手ぶらで行くと、なんと「昨日、並ぶンDrがクリスマスケーキをプレゼントしてみんなで食べました。冷蔵庫にあと3個ありますからこてる先生も食べて下さい」と言われた。ひえー。やはりこっちに持って来なくてよかった。かぶる羽目になっていたわ。
「ああ、いや私はいいよ。それよりまだ食べていない人がいるならそっちでぜひ食べてー」と日頃は甘い物に目がない私が遠慮した。まさか昨日も今朝もケーキを食べまくっていたとは言えない。アハハ。

で、夕方気になる体重を測ったら80kgはちゃんと切っていた。よしよしとりあえずはケーキ太りはないようだ。来年もまた美味しいクリスマスケーキが食べられますよーに。

2024年12月25日水曜日

悪ウン流す一人大腸内視鏡

今日のネタは昨日の話の続き。

医局会では畠鏡総務部長から連絡を聞いた可愛いんだ理事長が「こてる先生は信号無視やって遅れるそうだ」とみんなの前で漏らしたそうだ。がーん。まあ仕方ない。会途中に遅れて席に着いた。終わっていつもの院長報告を受け、その後は病棟回診と入院患者への指示出しなどで内視鏡室へ降りるのが遅れた。ふう、面倒だなと億劫さを感じていた。というのも、今日は検査をする側と受ける側両方をしなくてはならないからだ。

こてる日記をずーっと読んでいる人なら知っていると思うが、私はだいたい4年に一度大腸内視鏡をこの30年ほど受けている。今日はその日と決めていた。どうしても今年中に受けねばならなかったのだ。となれば今週中に受けないともう時間がない。「だいたい4年に一度」と書いたが、正確には「夏のオリンピックのある年に大腸内視鏡を必ず受ける」と自分で勝手に決めている。大腸に何か問題があるからか?いやそんなことはない。これまで1992年から8回受けて来て、結果はすべて「異常なし」だ。ポリープの1個もない。ただ胃や大腸を専門にするものとして「胃腸の検査を定期的に受けるのはどのくらいの間隔を空ければいいか」という問いに「理想的には胃は毎年、大腸は4年に1回」と公言してきたから、自分でそれを守っているのだ。ま、あくまで理想ではあるがね。

大腸内視鏡は最初の2回は先輩のいる病院、クリニックで受けた。しかし2000年に青雲病院(現青雲会病院)に来て、当時は私以外には大腸内視鏡の出来るドクターはいなかった。それでやったのである、一人大腸内視鏡を。自分でお尻から内視鏡を入れ自分で観察をするのは後に私と同じような手技を公表し観衆の前でそれを実演までして2018年にイグ・ノーベル賞まで受賞したドクターもいたな(長野県昭和伊南総合病院勤務の堀内朗医師が医学教育賞を受賞。受賞理由は2006年発表の「座位で行う大腸内視鏡検査―自ら試してわかった教訓」)。私はその発表ががあったのをそのころ知っていた。「あは、自分を同じようなことをやっている。でも自分は絶対発表したくなかったけどな」と思っていた。いや、実は可愛いんだ理事長から「発表しろ」といわれていたんだ。でも、何の趣旨で発表する意味があるのかを見出せず断っていた。しかし、発表しろとうるさい(失礼)ので、年に1回ある院内勉強会でスライドとビデオを使って発表したことはあった。案の定、爆笑されたけれど・・。

その後、2004年、2008年と4年ごとにやっていき、その頃は大腸内視鏡をするドクターも私以外に何人かいたのだがこてる先生=一人大腸内視鏡ということになっていたのでパフォーマンス披露の意味もあり続けてきたというわけだ。さすがに2020年は新型コロナの影響などあり初めて4年間隔実施をしなかったが、翌2021年は東京オリンピックが開かれ「オリンピックの年に大腸内視鏡」という原則を守るべく行い、こてる日記ネタにした。それから4年後、どうも億劫になってきていて年末にまできたというわけ。それに朝、交通違反を犯し悪ウンも流したかったしー。

その様子は今回も2016年12月3日、2021年10月26日のこてる日記とほとんど変わらない。内視鏡室スタッフにデジカメ写真も撮ってもらった。結果はやはり異常なし。「いつか一人ポリペクトミーをやってみたい」という私の密かな願望は叶わなかった(笑)。
↓上は内視鏡室操作中、下は深部の回盲部まで入ってのポーズ写真。
今回は盲腸到達時間が4分30秒程度と例年より1分ほど時間がかかってしまった。後ろに背もたれを着けての操作がやはり少しやりにくい。そうだ、堀内朗医師は椅子に座ってやるとやりやすいと発表していた。ううむ、そうか。よし4年後は私も椅子に座ってやったろ(やれやれ)。

2024年12月24日火曜日

信号無視したつもりはなかったのに

今日はクリスマスイブ。だからといって特別なことは何も予定していない。午後の内視鏡検査が早く終われば、ちょいと早帰りして、森三でカールの好きなモンブランケーキでも買って帰ろうかなーんて目論んでいた。

朝は午前8時過ぎから医局会があるため少し早めに出て、高速から姶良で降りていつもの道を病院に向かっていた。この時期のこの時間帯は太陽が低くまぶしくてサンバイザーを降ろして運転だ。曲がり道で反対車線を車が通り過ぎたのに気づかなくてヒヤッとしたりもした。だから日差しがなければサンバイザーは戻していた。そして病院近くの交差点に近づいた。またまぶしくてサンバイザーを降ろした。前車が横断歩道を通過した。私もその後を付いて交差点に入った・・。

気がつくと交差点の真ん中で対面の信号が赤だった。あ、左右の車が今にも動き出しそう。私は「ええい突っ切れ」とプリウスを前進させ対面横断歩道までたどり着いた。その時だ。

「ウワ〜ン〜ン」

え?!右側道路からパトカーのお出ましだぁ。「ああ、やっちまった」「前の車、道路の脇に止まって下さーい」「はいはい、止まりますよ、逃げませんて」警察とのやり取りは省く。結局、違反点数ー2点で反則金9千円を支払いなさいということだ。

サンバイザーを降ろしていたため、私には信号は全く見えていなかった。前車の後を馬鹿正直に付いていって、信号が黄色から赤に変わっていたにもかかわらず、それを確認せずに進入してしまった。かといってまぶしすぎてサンバイザーを降ろさないわけにもいかない。↓は停車させられている時に撮った写真。太陽が直撃しているのが分かるだろう。

警官が書類を書きにパトカーに戻った隙に、バックミラーでパトカーの写真も撮った↓。
病院に電話し畠鏡総務部長に「信号無視でつかまったから医局会には少し遅れる」と伝えた。まったくもう、信号見ずに進入したのは悪いとして、道路の真ん中で赤信号になっていたらバックするわけにもいかずあの時点ではツッコむしかないよな。「あなたならどうします?」と警官に尋ねてみればよかった。これで免許証もゴールドだったのに次回切り替えの時は講習1枠分聴かねばならないし、カードの色も青になっちまう。あーあ、気分わりぃ〜〜。

交通違反って指摘されて納得することもあるけれど、今回みたく違反した気にすらならないケースもある。急いでいるわけでもなく赤だと分かっていれば絶対突っ込まなかったしー。本来は今日の日記ネタはこんなんじゃなかった。そうだ悪ウンを流すためにも明日は今日のその後をネタにしようっ。

2024年12月23日月曜日

親子二代に渡って世話になる

朝はいつもの朝礼ではなく御用納めの代わりの会だった。というのも今年は12月29日の毎年恒例の青雲会病院御用納めが日曜日で出来ないためだ。この会は畠鏡総務部長の業績報告とラブカメ先生の1年を振り返るスライドスピーチがある。業績報告は先週の朝礼で、今週はラブカメスピーチというわけだ。

例年、このスピーチの前にはラブカメ先生に「青雲会の職員の今年の写真を提供してくれ」と頼まれるのだが、腰痛で10日ほど休んでいて、頼まれるどころかスピーチそのものが危ぶまれていた。そんなわけで、いつもよりはスライド少なめにして後半はこの前の忘年会の公式写真とビデオから取ってきてうまくまとめていた。ただ先生も80歳になられたので、会の後、畠鏡総務部長から「来年はこてる院長に頼むことになるかも」と打診めいたことを言われたわ。ふむ、覚悟しておこう。

朝の内視鏡業務の前に情報提供書がいくつか届いていて、その中に、先月大学に紹介した膵癌疑いの患者の報告があった。その患者はそれまで当院を受診したことがなく11月半ばから「食事が摂りにくい」などの症状で消化器内科にやって来た。腹部エコーや胃カメラで十二指腸に狭窄があることが分かり腹部CTの結果も踏まえてすぐに大学に紹介したのだった。結果は私の見立てどおりで、悪いことに手術は不可能で、抗がん剤と通過障害を軽減する処置のステント留置を実施したということだ。ある程度こちらの予想どおりの報告だった。膵癌はねぇ・・他の癌はどうにか対策も出来るがいまだに治療がやっかいで根治が難しい。

パラパラと報告書を見ていると、大学で外科が消化器内科に内視鏡依頼を依頼したプリントがあって、その内視鏡術者を見て「ほう・・」と思わずつぶやいた。私の大学時代に同じ内視鏡室の研究グループ員だった山ンバDrの息子だったからだ。山ンバDrは私と同い年だが卒業が後だったので医局内では後輩だった。しかし私が旧の青雲病院に就職して胆膵系でちょっとやっかいな患者さんがいてERCPがらみの処置を山ンバDrに依頼したことが一度だけあった。2002年の5月頃だ。それから10年弱経った頃、出水市方面である医院が後継開業を探しているところを私が仲介して彼が開業することになった。順調に行き、まだまだこれからという2016年、彼は心筋梗塞で急死してしまったのだ。その時、彼の長男は宮崎の医学部生だった。確か卒業1年半前くらいだったと思う。あれから8年、息子氏は医師になって今では父親と同じ消化器内科医師としてばりばり活躍していたのだ。私は親子二代に渡ってお世話になったことになる。ちょっと感慨にふけってしまったのも当然か。

あと10年もすれば私も引退か老体医師で片隅でぼちぼち仕事をするくらいだろう。で、私たちの子ども世代が中心になっているはずだ。それでいい。それを見ることが叶わなかった山ンバDrは無念だったろうが、私はしっかりと見ているよ。安心して休んでいておくれ。↓の写真は2011年、うちのセージ、チッチと同じ高校の運動会に来ていた在りし日の山ンバDr。彼も息子3人で同じ小学校だったが、見事なくらいうちの息子3人とは学年が一致しなかったな(笑)。

2024年12月22日日曜日

有り難きベテラン看護師

今日は朝から夕方まで病院日直の仕事だった。日当直をするのは今年最後だ。で、病院に到着するなり、本日担当の代傘模試Nsからピッチに連絡あり、「インフルエンザの患者さんがー」とあった。すでにインフルエンザと判明している患者さんの指示やもう一人発熱でインフルエンザっぽい人も来ているという。やれやれだ。

今日は当番医ではないので一般のインフルエンザ疑いの人たちは来ない。でも、高齢だったり重症感のある人たちが運ばれてきた。ただ、インフルエンザは当院に多い4人部屋の空いたベッドには入れられない。隣の患者にうつす危険性があるからで、空いた個室が必要だ。それで一人は断ったかな。しかし夕方運ばれて来た高齢女性は心不全も悪化しており唯一空いていた個室に入院させた。昼からは心肺停止の高齢男性(結局、救急外来で亡くなった)、糖尿病と脱水で高浸透圧高血糖状態に陥り意識不明になった人(以前は「非ケトン性高浸透圧性昏睡」と言われていた病態)など重症患者が続いた。

その意識不明の患者さんはいったん呼吸停止があり気管挿管をすることになったが、なかなか挿管できなかった。私はだんだんいらついてしまい、後で聞くと病棟看護師らを怖がらせたらしい。誰かに対し怒ったわけではないけれどね。気管挿管は9割方入れられるんだけどこの患者さんはがっちりした顎でしかも自発呼吸は戻っていたこともあり難しかった。そこで「モニター付きの気管支鏡を使ってみられては?」というベテランの松枝Nsの提案を受け入れ(実はそのタイプの気管支鏡は使ったことがなかったが)やってみると、経鼻から実に簡単に挿管できた。一応知識としてはその手の内視鏡が導入されたことは知っていても、ついつい手慣れた昔ながらの手法を優先しがちだったんだ(反省○| ̄|_)。

17時半で私はお役御免なのだが、その時間に怪我や打撲などで2台の救急車が要請されすでに1台は来ていた。当然私はもう診ない。夕方から担当に脳外科のポンシンDrが来て対応を始めていた。しかし代傘模試Nsは引き続き明日の朝まで担当するのだ。いや、大変。彼女は今年途中から救急外来当直を担当するようになった。落ち着きと的確な対応で十分に仕事をこなしていたねぇ。これまで病棟や手術室など経験を積んでいたからこそだと思うが、だからこそ日当直外来を任せられる看護師がそうそうはおらずやや不足気味なんだ。今日は彼女に感謝したかったがその時間はそれどころじゃなかった。また今度だ。

ベテラン看護師に助けられた日直当番の日だった。

2024年12月21日土曜日

母を直接見舞う

昼過ぎに12月11日に枕崎の「おばらん」病院に入院したあこネーサ母の見舞いに行った。見舞い時間が午後指定になっていたため、先週は都合で行けず今日になった。

4階の病室に行くと2人部屋のベッドにあこネーサ母は寝ていた。うーん、それほどやつれた感じはなく今年2月に青雲会病院で造った胃瘻からの栄養補給がまずまず効いているのかも。額を触ってみても発熱はなく、話しかけみたが「アウアウ」と言うだけで会話は全く成り立たない。ふう。


と、詰め所からドクターがやって来た。あ、宮砂糖Drだ。「いやー、久しぶり。先週来るからと思っていたけど」と言われた。彼は直接の担当ではないが、私の母というのを知っていて見舞いに来るはずと思っていたようだ。そういえば去年の冬もここに入院したがあの時は直接見舞いは叶わず、1階のモニター室からのリモート面会だった(こてる日記2023/12/18「母をリモート面会で見舞う」http://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2023/12/blog-post_18.html)。日記を読み返すと、宮砂糖Drには会えそうもないと残念がっていたのと母の頬を見て食事が足りずに痩せているという感想だった。久しぶりに会って彼に「太った?」と言われたがそりゃ太った。ボウリングもこの2年ほとんどやっていないしたまにお菓子のつまみ食いもやっているしー。その点、彼は全く以前と変わりない。
「枕崎のボウリング場はまだあるの?」と尋ねると「ある」という。彼はそこでのリーグ戦に参加しているが「最近は参加会員も減少気味」だとか。それでも続けているだけすごい。奥さんは鹿児島のラウンドワンで投げているそうで、みんなしっかり続けているなぁ。鹿児島から枕崎までは1時間ほどかかるため、毎日通勤はせずアパートがあって通うのは週2回程度なんだそうだ。なるほど、同じ遠距離のサブアラドDrの霧島の病院勤務と似ている。彼は副院長職で「この病院も若手が増えずドクターの平均年齢が上がっている」そうだ。ううむ、それはサブアラドや私の病院も似たような状況だ。全国的に若手医師が都会に多くまた診療科も偏っているなど医師偏在問題がはっきり現れてきている。

しばらくあこネーサと返ってこないピンポン球会話をしていたが、カールも「まあまあ元気そう」と安心していた。
昨年はチエコンさん母、今年はカール母と親世代が次々と亡くなっているのであこネーサにはまだまだ元気でいてほしい。来年は昭和100年になるからあこネーサは誕生日がくれば満の96歳だ。こんなに長生きしてくれたらどうせなら100歳までと思ってしまいつつ、病院を後にしたのだった。

2024年12月20日金曜日

パワフル5階病棟忘年会

5階病棟が忘年会をするというので参加した。場所は姶良市の居酒屋「がんも」で私は最初から飲まないつもりで車で行った。飲み放題システムということもあってかすでに熱気ムンムンで私はオレンジジュースで近くにいたホリジュン看護助手、フロントリリー事務、ミヤビーエム看護師らと乾杯!してワイワイが始まった。

ところが、その直後、私はミヤビーエムさんに恥ずかしい事実を指摘された。なんと靴下に穴が開いていたのだ。ええ?!と見ると足先ではなくかかとのところ。なんでこんなところが、しかも全く気づかなかったなんてー。美人看護師に貧乏くさいところをチクリとやられ面目丸つぶれだぁ。

でもここから「うちではこのままこの靴下を捨てることはしない」とまたまた倹約おたくぶりの話題に変えどうにかその場を盛り上げた(つもり)。

そうこうするうちに結婚やギャンブルの話題になり、私が「パチンコや麻雀はかなりやったが自分はそれらをギャンブルとは思っていなかった」と述懐するとまあまあの同意を得られた。そしてミヤビーエムNsが「私の彼氏が麻雀はネットでMリーグとかを見ていて、チーム雷電を推している」というので「え、私もチーム雷電推しだよ」と言うと、イケメンのメンバー本田選手や萩原聖人など俳優兼雀士のこと、別のチーム(ビーストX)の元乃木坂46の中田花奈が弱いという意見などかなり通な情報を知っていて驚いた。どうも彼氏が麻雀をそんなに知らない彼女にいろいろ教えているらしい。いやー、Mリーグの話題が出るなんて滅多にないし、私以外でチーム雷電推しを知ったのも初めてだ。ちなみにテルはずっと渋谷アベマズ推しだ。プロ麻雀のリーグ戦「Mリーグ」を知らない人に教えると、全9チームあり1チーム4人でそのうちの1人が他チームの1人と麻雀対局をしその戦果はチーム得点として合計され半年間で90半荘以上を戦いチャンピオンチームを決定するリーグ戦だ。「チーム雷電推し」は野球で言えば「実はロッテファンでして」と言っているようなもの。↓は麻雀牌をつまむポーズのミヤビーエム看護師。

結婚話題でいうと、ホリジュンさんは高校時代から付き合っていた男性と10年以上交際が続き27歳で結婚したと聞き、私は「そのパターンは結構珍しいなぁ」と感想を述べた。私の周囲を見ても幼なじみや高校時代の同級生が結婚するケースは少なく、したケースでも卒業後久しぶりに会って意気投合して・・ということがほとんどだ。それくらい若い間は春秋に富んでおり昔からの付き合いより新たな出会いに関心が向くケースが多い。「20代の若者は3ヶ月会わなければ(付き合っている)相手が違うなんてザラだしー」と言ったりした。そんなホリジュンさんやフロントリリーさんも子どもが同級生でしかも働き始めていて「もう子どもらの世代といっしょに働く年になってー」と子育ての話題がメインになっていた。↓左フロントリリー、右ホリジュン。鏡に映っているのは私。
とまあ、他にもいっぱい話題が出て話は尽きなかったが、5階スタッフの話をするパワーはすごくてその声量の大きさに相手の話し声がよく聞き取れないほどで、これは今年6月15日にあった5階の飲み会と全くいっしょだった(2024年6月15日土曜日
「こんな綺麗な看護師さん」→http://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2024/06/blog-post_15.htmlこの時話題にした山師かなNsはやっぱりお綺麗でした)。いやはやこれはやはり憂さ晴らしパワーなのか、あまりのうるささに出禁にならなければいいが・・。

幹事役に締めの挨拶をと頼まれていて、前回は「元気があれば何でも出来る」なんて言ったが今回は「5階の皆さん・・愛してます」とまるでチャン・ドンゴンかペ・ヨンジュンみたく挨拶をした。まあそんなことはどうでもよく、みんなワーワーキャーキャーで、締めどころかまだまだ勢いは衰えていなかった。
私やマチルダ師長はこの後そっと帰ったが、後日聞けば半数以上が二次会でカラオケに行き翌日勤務の職員はふらふらだったらしく、休みのミヤビーエム看護師など翌日昼に「今は絶賛二日酔いです」とメールしてきた。いやはや。

2024年12月19日木曜日

相互ラウンド

医療安全対策地域連携加算に伴う相互ラウンドというのがあって、一昨日は国立のサンキュー病院が青雲会病院を、今日は青雲会病院がサンキュー病院に出向いて視察し良いところ悪いところを指摘し今後の医療安全の質の向上を図ろうという趣旨の取り組みだ。私は去年に続いての参加となった。

直前に放射線科の空中科長がインフルエンザに罹り参加出来なくなり、8人参加が1人減って病院の訪問看護用のハイエース1台で向かった。サンキュー病院玄関前で記念の写真を撮ってから案内されて中に入った。去年はバシバシ写真を撮ったものだが、一応病院内は撮影禁止だと後から知ったので今回はここまでにするつもりだった。↓うーん、自分かなり恰幅良く写ってますねぇ。太り過ぎぃ?。
ただ院内ラウンドで手術室入口前でばったり出会ったのが「いやもっと」Nsでそこは写真を撮った。旧青雲病院時代にいっしょに仕事をしたことがあり、鹿児島市内の病院に行って10年くらい前に結婚したという噂を聞いていた。確かにそのとおりで鹿児島のカイリョー病院にいたが、子どもが出来たこともあり負担の少ないこちらの病院に転勤したのだそうだ。
ここには貝ちえNsやフッチーNsと元青雲会病院看護師が3人はいるとのことだ。

内視鏡室や放射線室そして病棟と回り、安全対策は十分になされていると思った。病棟で電子カルテが「大手のものから地場のメーカーのものに変わって・・」というので見ると、2ヶ月前に青雲会病院と同じ会社のものに変更になったという。「使い勝手はどうですか」と尋ねると「前の方が使いやすかったです」だって。へへー、自分らは電カル導入時からずっとその地場メーカーのものを使っているのでそんなもんだと思ったが・・。井の中の何とやらだったかもしれない。

最後は大きな会議室で一人一人視察した感想を述べていった。私も無難に言い終えた。こうして他院訪問するとなにがしか参考になるし刺激にもなるってのは特に強調しておいた。ただ、敢えて言わなかったことがあって、よく見ると進行表の一部に明らかなミスがあったんだ。そこには「青雲会病院副院長こてる先生」と載っていた。別のところは院長となっているのもあるのに。あはあと思ったのが去年の進行表を参考にしたのだろうと。来年はちゃんと院長と書かれるようしっかりしなきゃということで・・サンキュー病院を後にしました(笑)。

2024年12月18日水曜日

ついこの間とつい隣

12月18日かぁ。1967年のこの日、映画「ゴジラの息子」を見に行った日だと先週書いた。57年も前のことなのに、カマキラスが怪しい声を上げて怪獣島を闊歩する映像と音声、そこに背後から「テルちゃん、ヒロくん」とタニさんに呼びかけられ、後ろ髪引かれるように映画館を去ったのを、ホントついこの間のように覚えている。57年も経てばそら高島忠夫が既に亡くなっているのも当然だわな。最近知ったトリビアでは、あの映画はグアムロケがあったにも関わらず高島は大の飛行機嫌いで一人だけロケに行かなかったそうだ。映画では高島に似た現地の人を代役で出演させて撮影が行われ、高島は映画を見て笑ってしまったそうな。

今日の日記、出だしに仕事のことを書かなかったのはここ最近の水曜日が毎回同じパターンだからだ。午前の外来が終わらなく14時になってもまだやり残していた。朝は休みのDrの代わりにスメア検査を行い、その後は外来、そして2人の入院患者の指示出しをしていたら13時半からの会議二つには出られなかった。これで欠席は3週連続だよ(私がいなくてもどうにかなるのでは・・ぐずぐず)。

そんな中、毎日のようにセージやマーヤからココちゃんの写真&動画が「みてね」をとおして送られてきて癒やされる。もう生後7ヶ月になるんだ。離乳食もとるようになっているし日々成長していて可愛さも増して来ている。
鹿児島と千葉で遠く離れていてもつい隣にいるかのように見て楽しめる。これは現代に生きている恩恵だな。まだまだ長生きしなきゃ!

2024年12月17日火曜日

ウォルター・ルーサーを知っているか

夜、録りだめしていたNHKの「バタフライエフェクト」放送の中で2週間くらい前の「ラストベルト アメリカ 忘れられた人々」を見た。前置きが「2024年の大統領選挙、トランプ氏は、五大湖周辺の工業地帯・ラストベルトの激戦州を制し勝利した。この地域は、1960年代まで自動車、鉄鋼が栄え、労働者は高い賃金を得て繁栄を謳歌した。しかしその後、日本車などの安い輸入製品に負け、さびついた工業地帯と呼ばれるようになった。国際競争に負けた原因は、皮肉なことに労働者の高い賃金だった。世界にアメリカンドリームを振りまいた地域はなぜさびついてしまったのか」であった。ラストベルトというのはRust Beltと書き赤錆地帯の意味でアメリカ合衆国の中西部地域と大西洋岸中部地域の一部に渡る、脱工業化が進んでいる地帯を表現する呼称である。「Rust」は「錆」(さび)という意味で、使われなくなった工場や機械を表現している。

いや〜意外に面白かった。鉄鋼業と自動車がアメリカの一大産業となりデトロイト周辺には仕事を求めて各地から労働者が集まり活況を呈す。しかし、労働者の待遇は不安定で恐慌時代には多くの労働者が解雇され貧困に喘いでいたが、ルーズベルトの大統領就任以降労働組合が認められるようになった。しかし自動車のビッグスリー(ゼネラルモーターズ、フォード、クライスラー)はなかなか組合を認めない非近代的な態度だった。ここに田舎町から出てきたウォルター・ルーサーという若者は労働者の権利を獲得するために動き、組合の中心的な存在となっていく。組合員を指導し、1936年に労働組合を認めないゼネラルモーターズにストライキを開始した。このことによって大きなダメージを受けたゼネラルモーターズは労働組合の設立を認め、組合は賃上げも獲得した。その後はクライスラーにもストライキから労働契約を勝ち取った。

最後は難関のフォードだ。当時のフォードはヘンリー・フォードの個人会社であって不穏な動きをする労働者を裏社会出身の連中が社内を監視し暴力でもって制するというまるでヤクザ組織のようなところだった。さすがのウォルター・ルーサーもすぐには組合を組織は出来なかったが、一案を演じ知り合いの新聞記者を連れ、組合加入のビラ配りを行う。そこに監視員やって来て暴力を振るうのだが、そこをパシャリだ。翌日の新聞に大々的に報道され、世論を味方に付けていき、数年後最終的に組合を認めさせ、段階的な賃上げにも応じさせることに成功した。

話は飛んで、それから半世紀後、日本車などの攻勢にデトロイトは疲弊していた。燃費のいい車を軽んじ、安い労働力が背景の外国車との競争に負け、さらに力を増した労働組合からへの高い給料支払いが負担となったりしていたのだ。世の中の主産業もシリコンバレーなどデジタル産業が伸び西海岸が好況を呈するようになる。デトロイト周辺の3州はラストベルトと呼ばれるようになり、労働者の意向が反映され、現代では大統領戦でここを制する候補が勝つといわれる地域になるという皮肉な状況という話だった。30年から50年も経つと産業や地域の栄枯盛衰が鮮やかに描き出され実に面白い。

ただ、今回の特集で一番印象に残ったのは、ウォルター・ルーサー(Walter Philip Reutherという人物だ。単なる労働組合の闘士というだけならままある人物像に過ぎない。しかし彼は違っていた。人種差別撤廃の公民権運動、性差別撤廃、貧困や公害問題をなくすために積極的な活動を行い、はてはキューバ危機にもケネディ大統領の特使として捕虜交換などの活躍をしたり、その後のジョンソン大統領とは毎週のように会いものすごく頼りにされていた。キング牧師の有名な「I Have a Dream」演説の時にも前説で数少ない白人の一人として演説を行っている。他、核不拡散にも賛成しておりただ者ではないと思った。ルーサーは『タイム』誌によって、20世紀で最も重要な人物のひとりに認定された。
残念ながら1970年に飛行機事故で亡くなってしまうが、1995年、彼はクリントン大統領から大統領自由勲章を没後追贈された。記念式典の際、クリントンは「ルーサーは時代をはるかに先んじたアメリカの先見家であり、彼が亡くなられて四半世紀たった今なお、わが国は彼の夢に追いつけていません」と述べたそうで、確かにそのとおりだ。こんな凄い人物を今まで私は知らなかったなんてー。アメリカはふところが深い。私なんかが知らない立派な人物が他にもまだまだいそうだわ〜。

2024年12月16日月曜日

「膀胱癌?切らずに治せますよ(イヒヒ・・)」

この前、長らく朝の情報番組「とくダネ!」のメインキャスターを務めた小倉智昭さんが膀胱癌で亡くなった。公表された時からステージⅣと聞いていたのでこうなるとは予想はしていた。最初に膀胱癌に気づいたのが2016年で赤い粉のような排尿があったそうだ。細胞診で癌が疑われ、内視鏡手術後に先生から「粘膜がんではなく、筋肉層まで食い込んでいる浸潤がんで、状態がかなり悪いからなるべく早く膀胱を全摘してください」って言われた時が運命の分かれ道だった。

「膀胱摘出をすぐには決断できなかった」という。膀胱の全摘というのは、精巣や勃起神経、前立腺など周りのものも取ることになってしまう。本人によると、やっぱり男として未練がましいところがあったので「ちょっと考えさせてください」と言って、インターネットや本でいろいろなことを調べた。本の中には『がんは切らずに治る』とか民間療法を紹介するものも多かったとのこと。「それらを片っ端から読んで、新しい抗がん剤を取り寄せたり、がんを活性化させない治療などに飛びつきましたね」「やっぱり少しでも長生きをしたいと思うので、他に何か良い方法はないかと自分でいろいろと情報を集めちゃう。すると『〇〇を飲んだらがんが消えました』とか『こんな治療をして長生きをしています』とか、さまざまな例が出てくるんです。 ただ、振り返ってみると、遠回りしたなと思います。もちろんセカンドオピニオンは重要ですが、どの先生も『これは早く取ったほうが良い』とおっしゃっていましたから。 結局2年間悩んでいるうちに、中にできたポリープが弾けて大出血を起こし、即入院する事態になりました。先生からは『症状が重いから、すぐに取らないと大変なことになる』って言われましてね。結局、あきらめざるを得ない状態になって全摘をしました」ということだったらしい。

結局、最初っから医師の言うとおりに従っていれば助かった可能性もあったかもしれない。2年も悩んでいたとは・・。結局、18年に膀胱を全摘出手術。22年10月、肺への転移が判明し、抗がん剤治療の影響で、腎臓に副作用が発現。昨年12月1日に左腎臓の全摘手術を行っていた。しかしその後も腰椎、骨盤、髄膜などに転移。12月4日、医師から治療の手だてがないことを告げられ、自宅に戻り12月9日に亡くなった。小倉さんは「医者が勧める標準治療を受けていたら」と後悔していたという。小説家で医師の知念実希人氏はこの話を知り自身の「X」で、標準治療と違う民間療法をきっぱりと断罪している。

「標準医療とは単語のニュアンスで『最新医療には劣る普通の医療』と誤解されることも多いですが、実際は『現在、エビデンスが確立している最善の治療法』です」と説明する。そして「民間療法の方が大金がかかるので効果が高いと思われがちですが、民間療法で標準療法を上回るデータがあるものは皆無です」と、自身の感触としては疑問視する思いも綴っている。続けて「(特に有名人が)がんと診断されると、怪しい民間療法の関係者が近づいて、高額な治療を勧めてきますが、どうか騙されないでください」と注意喚起をする。さらに「そのような業者は、病状が悪化したら『うちでは診られない』と一般の病院に患者さんを丸投げしてきます。騙されて、大金を奪われたうえ、がんが悪化して根治不能になってから、紹介されてきた患者さんを何度もみています」と告白した。最後に「『標準治療は、最善の治療法』ということをどうか覚えておいてください」と締めくくったのだ。

これに私も「激しく同意する」。

そう思っている矢先に今朝の新聞の一面の下部にも「何をしても駄目だった〇〇がこんなことで改善した」とか「病気がどんどん良くなる〇〇のやり方」などといった本や療法の宣伝が目に入る。病院やクリニックでは医学界で厳しい査定や評価を経て認められた治療を行っている。だが、それでも進行した癌を完全に治せるとは限らない。そこに民間療法業者がつけいる隙があるわけだ。病気で悩んでいる患者さんのそうありたいという願望に沿った、しかし効果のない治療法を提供するんだ。治るはずもなく、最後は何かと言い訳して知念氏が言うように「最後は丸投げ」だ。はあ・・。

私たち医師もこうした怪しい民間療法に対してはたいていの場合はNOを突きつけるようにしておかねばならない。そして標準的な医療、治療とはどういうものかを今のネット社会に発信しづけなくてはと思うのである。

2024年12月15日日曜日

インプラント治療が始まる

今日は夕方からインプラント治療のために鹿児島中央駅の薔薇歯科アミュ店まで出向いた。先月9日に診察や検査を受け、今日から治療開始である。中央駅にはアミュ店と対面のビルにリュクス店があり、今日は受け付けをアミュ店でして、その後はリュクス店で施術を受けた。日曜で本来はアミュ店のみ開いていて、インプラント手術などのみリュクス店で行うシステムのようだ。実際、リュクス店は入ってから出るまで私しか患者はいなかった。

口腔内の消毒などしてもらい、トイレにもいってきて下さいと言われ、上等トイレでうんうん唸っても簡単には出ず、最初の治療台とは違う治療台に行って、顔面を覆うシーツを被せられ(口元だけは開いている)、副院長の登場を待った。ここの理事長の息子で今年で11年目ということだ。まだ歯科医師としては若い方だろうが、インプラント施術はかなりやり慣れている感じだった。県内でもここの歯科グループは年200例以上とトップクラスの術数ということだ。↓トイレはとっても綺麗で高そう。

チクッと麻酔針が刺さった感じがしたくらいで、その後40〜50分は痛みという痛みは感じなかった。ただ、左上の4番5番のあたりをいじくられている感覚はずっとあり、特に小さな金槌でタンタンと叩かれる感触は初めてのものだった。後で「あの感じは何をしていたのですか」と尋ねたらインプラントの土台の器具を入れ込む時のもので奥の内腔がネジの先端で傷まないようにするための器械だったということだが、私からは全く見えないのでどんなものなのか表現しようがない。上顎洞の粘膜を傷つけないように特殊なハンマーで上顎洞を挙上したのかな?確かそんなことを副院長は説明していたようだ。私は例によってカメラを持って来ていて撮影したかったがさすがにそれは無理だった。

歯科医院を出たのは18時を過ぎていてもう暗くなっていた。インプラントは今回で当然終わりではなく、次次週の土曜は抜糸(ばついと)があり、そこから3、4ヶ月後にインプラントの埋入が骨としっかりくっつくのを待って歯型を取って被せ物の装着に入る。だいたい全部終わるのに6ヶ月くらいかかる根気のいる施術だ。自宅に帰り着く頃、麻酔が切れてきたのかじんじんとした痛みを感じてきた。そこでボルタレン錠を飲んだら2、30分で痛みがほぼ消えた。うん、やっぱり効く。渡された抗生剤も服用し、うがい薬も試した。今使っている部分入れ歯は被せない方がいいとのことで、しばらく左側では噛みにくく食事は柔らかい物中心にせざるを得ない。

心置きなく食べ物をいただけるのはまだまだ先・・やね。

2024年12月14日土曜日

役満を上がったけれど

当直が明けてすぐに帰ろうとしたが、何かと病院の仕事はあるもので、帰宅出来たのは午前10時を過ぎていた。その後、朝シャワー浴びてゆっくり仮眠を目論んだが上手くいかない。だいたい昼前に仮眠しようとしても上手くいかないものなんだ。そのうちに昼食が出て、こてる日記を書き始めたが、13時半が来て途中で止めなければならなかった。14時から今日今年最後の仲間内での麻雀の予定があったからだ。

いつもの見せたまえDrの院長室に着くと、腹出し、サブアラド、見せたまえの強者がそろっていてさっそく闘牌が始まった。ちなみに今年の成績は腹出しと見せたまえが大きく勝っていて、私がまずまずの勝ち、サブアラド一人が大きく負け越している。実はこのパターンはとっても珍しい。サブアラドはだいたい勝ち越すことが多く、こんなに負けが込むのは初めてじゃないかな。

で前半、またまたサブアラドは負けが込んでいた、いかんせんトップが取れない。トップ取れない状態が前回、前々回と続いていて半荘25回以上も続いている。力が拮抗している中では滅多にない不調続きだ。半荘の6回目にしてようやくサブアラドは3万7千点で南場のトップ目に立っていた。私は1万7千くらいの3位だった。それまでトップ2回2位2回ラス1回とまずまず好調で「今回も無理せずラスを引かずにいればいい」くらいの気持ちで打っていた。

と、南3局5巡目に↓のような手が来た。中、一盃口の一向聴もしくは七対子の一向聴だ。ドラが3ピンなためそれをぽつんと残している。この手は先に3ピンを持って来れば七対子ドラドラの満貫手にするつもりだったが、中や一盃口のみでは上がりたくはなかった。

7巡目、4索を持って来て待ちが6、9万で高め一盃口の手になった↓。リーチは当然掛けない。ただ6万が相手から出ても上がらず見逃すつもりだった。上がっても1300点にしかならない。当然だろう。この手は中を鳴くと5200点から満貫8000点になるし、もし中か7万か8万を持って来れば・・そう、ツモり四暗刻の聴牌に化けるのだ。

9巡目、予感どおり中を持って来て↓のようなツモり四暗刻の聴牌になり、即リーチした。これで出てハネマン12000点、ツモって役満の32000点である。
そう言えばこの麻雀が始まって「今年は役満がほとんど出ていないなぁ」と腹出しがつぶやいていた。彼が1回四暗刻を上がったくらいか。確かに例年に比べて役満が出ていない。まあ出る時は続けざまに出たりするしそんな年もあるだろう。プロのMリーグでも昨季は役満が全く出なかった。今年はようやく二階堂留美プロが四暗刻を上がって1年半ぶりとニュースになっていた。

私のリーチを受けて、下家の腹出しがチーをし、さらに上家のサブアラドもチーをした。安く蹴って私に上がらせまいという態度で、当然の対処だ。昔、学生の頃はこんな役満手を聴牌すると心臓がドキドキしたり、手が震えたりしたものだった。それが今はまったくドキドキも震えも来ない。上がれたらラッキーだなという感じで淡々とツモを繰り返した。しかし何かしら上がれそうな気がしていた。手の化け具合が理想的だったからだ。そして13巡目、盲牌するとマンズと分かり期待してめくると8万!「ツモ!」と静かにかつ力強く宣言し「四暗刻です」と牌を開いた。「ああ」と驚きとため息の声が・・。

完璧やったね。親番だったサブアラドは一気に16000点を失い、「せっかくトップ目だったのにー。これでまたトップを取れないわ〜」と落胆していた。その後、彼はオーラスで見せたまえに放銃し3位にまで落ちた。とことんだねぇ。私は当然トップでこの時点でトータルでもダントツになった。

以上で終われば私の調子の良さとサブアラドの不調が際だった麻雀の日だったと言えた。だが、後半になって反転した。私はなぜか3位、4位、4位、4位と急降下し、サブアラドは8回目の半荘で29半荘ぶりにトップを取ってその後3連勝。終わってみれば私はわずかにプラスに、サブアラドは負けはしたがダンびりからごく普通の負けくらいになっていた。なんでかな?今思えばイージーミスが目立ち、きっと睡眠不足からの疲れがどっと出ていたのだろう。役満上がってもう今日の麻雀が終わってもいいくらいになっていたしー。

そんなわけで久々の麻雀ネタはうれしさも中くらいに終わってしまった。見せたまえからは「役満上がったのにいつものこてるらしくなかった。飛び上がってやんやんと騒ぐのにさー、大勝ち出来なかったのはそのせいだよ〜」なんて言われてしまったよ。確かにー。

2024年12月13日金曜日

予定外のお仕事が入ったとしても

金曜は大学からの非常勤Drが日勤から当直までを毎週してくれている。ところが、そのケイブンDrが昨日連絡が入って、体調悪く調べたらインフルエンザA型だと判明したという。それで、誰か代わりに当直する必要があり、私が担当することになった。ちょうど翌日土曜は仕事が入っていなかったし、用事も入れていなかったしー。

最近の当直は幸か不幸かあんまし忙しくないことが多い。今夜もそうだった。一例だけ、霧島地区から「てんかん発作らしい患者さんが外で倒れたが今は意識がある」という連絡が入り、当初は当院のかかりつけというから受け入れる気もあった。しかし、担当するのは脳外科系のDrの方がいいし、それに地区外だし、詳しくカルテを調べると、当院のかかりつけでは全くなく鹿児島市内の脳外科病院のかかりつけであった。以前も発作で当院に救急車で運ばれたことがあり、数日脳外科Drが診療に当たっただけの人だった。まずは霧島地区の医療機関への搬送をと連絡しその通りになった。ふう。

そこで今夜は日頃やろうと思ってもなかなかやる気の出ない「お仕事」を少しでも片付けようと思った。医師会や学会のホームページでのアカウント変更やネットでの講演視聴などだ。特に「第5回医療事故調査・支援センター主催研修」のネット視聴は配信期間が2024年11月11日~2025年2月25日までとなっており、休みの日などに「いつかやろう」と思っていたが既に1ヶ月以上を過ぎていた。これは医療事故調査制度の研修の一環で院長のお仕事でもあり、料金も既に支払っている。講演は計4講演で3時間近くもあり、しかも途中途中にキーワードが示され、全部でその3つを視聴後のアンケートに正しく答えないと受講証をもらえないという。

で、最初の講演を聴いていたのだが・・椅子の背もたれが気持ち良くてハッと気がついたら40分ほどの講演は終わり、1つめのキーワード確認を出来ずに終わった。この講演ビデオは巻き戻しや早送りは出来ない仕組みで、キーワード確認するにはまた最初から視聴する必要がある。げぇ〜。それで次の講演からちゃんと視聴し、最終講演もしっかり聞いて2つのキーワードをメモした。で、最初の講演を再度聴き直しようやく3つのワードを確認出来た。とまあ、無事にアンケート送信出来たわけだが、4つの講演はどれも貴重で役に立つものであった。特に、一人だけ被害者の立場からの講演が私には身に染みた。20年ほど前に母親を手術ミスで亡くした講演者は被害者意識丸出しではなく、当事者としての率直な気持ちやそもそもなぜにそんな医療事故が起きたのか、そして今後こうしたケースをいかになくすべきかという観点からの話で素晴らしかった。具体的な内容は書かないが、その医療事故が起きた後にも同じような死亡事故がその医療機関で起きたという点、その当時は医療事故なのにそうとは捉えていないという当事者の意識(特に医師側)もあった点は医療事故への真摯な取り組みが必要であると再認識させられた。

ともかくも急な当直ではあったが、家にいるとついつい後回しにしがちな仕事をやろうという気になったし、日中の事務仕事もある程度片付いたしで、予定外の業務も捉え方一つでいい風になるってことだ。それに自分だっていつ都合が悪くなって誰かに代役を頼むことだってあろう。代役、代診は人のためならず、自分のためでもあるってことなんよね。

2024年12月12日木曜日

2002年のこてる家の春休み

2日前、昔の病院の事務職員の話題にした。その際、2002年のデジカメ写真を見直しているち、うちの子どもたちの春休みの頃の写真がいっぱい出てきて、懐かしくも感慨深くもあった。それでそれらの写真をLINEの「こてる家」にアップした。

まず上げたのがギボヒサコを含む6人全員がそろった昼食の様子を1枚にした写真だ。これは初めて買ったデジカメCanonのPowerShot S30でパノラマ合成写真で撮影したもの。この頃はこんなギミックが面白くてよく合成していた。これ以降PowerShotシリーズを愛用し今のPowerShot G7X Mark Ⅲで9台目だ(S30、S45、S80、S90、S100、S110、G7X、G7X Mark II)。

テルが4月から小学5年生、セージが2年生、チッチが幼稚園の年長さんになる年で、家の中でも外でも元気いっぱいに動き回っていた頃だ。
↓ではテルがおもちゃのバットを振り回している。この画像を家族LINEで見たチッチは「このバットを兄ちゃん2人が持ってる時、怖かった」と投稿してきた。

ほう、怖かったか。しかし、私は他にも写真をいっぱい撮っていてネー。
「いや、けっこうチッチもバット振っている」と送り返した。すると「振ってるなー」と認めていた。とにかく↑の写真のように部屋で暴れるのが大好きな子らだった。私がカメラを構えると↓のように変顔をして来たりとかさー。

しかし、日が変わると、子どもなりに試練も受ける。↓は翌日のお昼どきの写真だ。なぜかチッチの表情が振るわない。これ、ピーマンを食べようとしないので、カールママが食べるまで許さないと言っているのだ。写真が全てを物語っている。

それから7、8分後が↓の写真。手のシミなどから食べさせているのはギボヒサコだと分かる。
カールは食べ物の好き嫌いのある子にはしたくないという厳しい(まあ、当たり前の)方針だった。

上の写真から4、5日後、今度はセージが、私に叱られたのか、お兄ちゃんとケンカしたからなのか、畳の上で泣いているのをカールママが腕枕して慰めていた。

上の写真から1分もしない内に今度はぐるりと回ってママの胸の上に・・。
ふふ、身体は大きくてテル兄ちゃんとさほど変わらないくらいだったが、この時点でまだ小1の春休み中、まだまだ子どもだったんだねー。さらに↓が翌日の様子。テルが主導してトランプゲームをしている。何のゲームからは分からないが、テルはこのころからカードゲームが好きやったん。
そして奥にあるTVの小さいこと!元々は33型のTVだったが10年もしないうちに壊れてしまい、心ならずも20数インチのブラウン管TVを買ってそれを家族全員が利用していた。42型の液晶TVを購入するのはこの時から6年後の2008年だった。今では75型でも「まあ普通のサイズだな」という感覚になっており、よくこんなサイズで我慢して見ていたものよ。20年以上も経過すると、子どもの成長ぶりに驚くとともに当時と今の生活感覚がかなり違うことに戸惑うな。

でも写真って本当に大事だ。記憶の彼方にあった出来事を正確にそして一瞬に蘇らせてくれる。なんて素晴らしい。私がスナップ写真を取り続ける理由はこれなんよね。