2024年6月22日土曜日

王貞治はなぜ紅白審査員に選ばれなかったのか

朝っぱらからサブアラドDrからLINEにメールが来た。「七段昇段しました」と。ちくしょ、最近ネット麻雀が絶好調でつい10日ほど前は1200P前後で私といっしょくらいだったのに、すいすいとポイントを重ね、ついに2400Pに到達し七段昇段を果たした。私は1300Pあたりをうろうろして昇段どころではない。七段に上がると鳳凰卓という最上位の連中のみが戦える場に参加出来る。サブアラドDrは実に1年3ヶ月ぶりの鳳凰卓だ。私は年始めまではそこにずっといたのだが3月に六段降段してからはなかなか復帰できていない。「まあ、キミも頑張りたまえ」なんて上から目線で言われちまったヨ。まあ麻雀に限らず勝負事ってのはなぜかしら調子が上向く時がある。同じように打っても結果は散々になるなんて麻雀にはよくあり、せいぜい今を楽しむこったな、チキショー。

てげてげ先生から定期のメールが届いた。メールの中に東京に出かけた際に「懐かしい福寿司グループの方々が集まって、楽しく歓談できました。いつも美味しい寿司を握ってくださった大澤さんの思い出などに、花が咲きました。あの王選手が35年間、福寿司で12月31日の年越しを続けられたそうですが、その色紙を並べると実に壮観です。王選手と大澤さんの深い信頼関係を実感できます」との一文があった。福寿司という寿司屋で年越しをするのが王貞治選手の恒例だったという話題だ。その証拠というか毎年色紙をその福寿司に寄贈していて1965年(昭和40年)からのものが毎年飾られ写真も添付されていた。↓全16枚。王が引退したのが1980年だから最後は868号と書かれている。

いや、しかし壮観だ。V9時代には「努力」の字が多い。後半になると自身のホームランの記録が書かれ、写真はこの後もあり2006年まであり、最後は「氣力(旧字体)」ばっかしだったね。

福寿司は浅草の雷門から浅草寺に向かう仲見世通りをちょっと20mくらい歩いて左に曲がった所にあり、王貞治の早稲田実業野球部の1年先輩の大澤さんと誠実で温かい人柄の奥さんとがこじんまりとやっていた寿司屋さんだ。てげてげ先生は縁あって東京出張の際はしょっちゅうそこを利用し、東京の夜の社交場のような場であって、様々な人たちと「福寿司ファミリー」ともいえる交流があったそうだ。惜しまれつつ2013年3月30日に店じまいされたとのこと。↓てげてげ先生の「難病医療と我が人生」より。

ここで私にふと疑問が生まれた。大晦日といえば紅白歌合戦だ。王貞治くらいの有名人ならばその審査員に一度や二度は呼ばれたことだろう。しかし現役時代から引退してもしばらくは大晦日を福寿司で過ごしたということは・・もしかして一度も紅白審査員にはなっていないのかな?こんな些細な疑問も最近はネットで簡単に調べられる。審査員はだいたいその年活躍した人かNHKの番組に関係する人たちが選ばれることが多い。野球界も大谷翔平(2016)、田中将大(2013)など優勝した年に選ばれ、古くは江夏豊(1968)鶴岡一人(1969)、古葉竹識(1975)、川上哲治(1976)、上田利治(1977)などいて長嶋茂雄も2000年に出ている。で、調べてみた。で、驚いた。世界の王さんは一度も選ばれていなかったのだ。NHKが王貞治に審査員を一度も打診しないはずがない。しかし王は福寿司で必ず1年の終わりを振り返り、新しいの年の決意を色紙に残すといういわゆるルーチンを絶対に崩さなかった。ずっと断り続けていたのだろう。そのうちNHKも打診はしなくなった・・のではないか。

このエピソードを知り、私は福寿司という寿司屋の魅力と、そことの縁を何より大事にし、何があっても継続するという王貞治の凄みを感じた。打者として野球人としてこれはいいという練習を飽くことなく彼は続けていたのじゃないかな。飽くことなき練習、それが希代の大打者を生んだ。それは大晦日には福寿司で過ごすという習慣を絶対に崩さなかった姿勢と相通ずるものがある。今日の日記タイトルで「なぜ紅白審査員に選ばれなかったのか」と私は書いた。しかし、事実は逆で、王貞治のルーチンを崩すことが出来ず選ばれなかったのはNHKの方だったのである。

2 件のコメント:

  1. 今書いたコメント、投稿されたのかな?!ちょっと不安に。でも迅速さ、目の付け所、さすがにコテルさんだと。でも大澤さんにまた会いたいですが、江戸っ子ですので自分の「弱ったところ」は見せたくないのかもね。

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  2. コメントありがとうございます。これからもよろしく。

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