「消化器内視鏡」を専門とするDr.こてるです。
趣味のボウリング、麻雀や病院での出来事、家族の内輪ネタから時事問題まで
日々の徒然を「こてる日記」として、毎日アップしています。
2000年5月から開始し2015年5月分からブログに移転しました。
2024年11月30日土曜日
2024年青雲会忘年会
2024年11月29日金曜日
ベンツと散髪
昨日のことだが、当直明けで午後は早帰りだった。
自宅に向け高速を走っていると隣を白いベンツが通った。ふーんと思ってナンバーを見ればなんとサブアラドDrのベンツじゃん。奇遇にもこんな真っ昼間に帰宅時間がいっしょとはー。さっそく電話がかかってきたよ。「白いプリウスだなーと思ったらお前のナンバーだったわー」とそれは私もいっしょの感想だ。彼も週1くらい午前で仕事を終え帰ることがあるという。私は90km以下の自動走行にしているので追い抜かれたが、また追い返しバックミラーのベンツを撮った。「手を振ってくれ〜」と頼むとそうしてくれたよ、ハハ。
料金所を出てそろそろ北インター出口に近づいたら、「私はこれから散髪に行く」とサブアラドDr。「おお、なんと私もすぐに帰宅せずに散髪に行こうと思っていたんだ。1300円カットだけどー」と私。「私は昔からの散髪屋で4700円です」「くーっ、そんなには払えねー」とこれはホントの私の気持ち。出口近くに来ると、サブアラドベンツはいつもの北インターではなくて鹿児島インターに向かうため私の車を追い越した。その瞬間もデジカメに撮ったが、さすがに運転中ゆえに全く見ずに手だけ窓に向けて撮った。
オートモードでピタッとピントが合ったはいいがあまりスピード感は感じられない。北インター手前で私の前を走り去って行った。ちょうど13時半。高速は空いていたなぁ。この後、スピードカットに行き、終わったのがちょうど14時だった。早くて安いから断然こっちの方が好みなんだ。高くて上等よりもねっ。2024年11月28日木曜日
ブラックフライデー
2024年11月27日水曜日
特Bはレット・イット・ビー
朝の院長報告で昨日の当直帯に着た救急車がなんと9台にもなったそうだった。平日の夜に来た数では記録的だ。断ったのも1台あったそうだから、どんだけ〜だ。最近はこんなに救急車が多かったかなと思って調べると、この1週間は0台という夜も意外に多くてなんだか埋め合わせをするかのように昨夜は集中しただけみたい。いやはや。
午前外来に付いた看護師は6月に入職したイマタニさんだった。彼女、日記ネタにもなったな→http://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2024/06/blog-post_20.html。それはともかく、昼前には一人5階病棟に入院させないと行けない患者がいた。バタバタしている中で入院させる部屋がどこか忘れた私はイマタニさんに「ええと、部屋は何号だったっけ?」と尋ねた。彼女は「特Bです(特別室B)」と即答した。それを聞いて「トクビー・・・レット・イット・ビー」と私は口走った。これってもう30年くらい前の志村けんと石野陽子のコント「そこまで言う?言うよ・・早見優、北天佑、醤油、ラー油、アイラブユー」といっしょの単なる地口(じぐち)言葉だった。
しかし彼女のリアクションは予想以上だった。こんな場合他の看護師なら無視するか、「はぁ何言っているですか」か「ふ・・」と苦笑いするくらいだ。ところが彼女、プッと吹き出した後、「ビートルズ、好きなんですか。私もビートルズ大好きなんです」だったのだ。へーぇとこっちも驚いて、「ビートルズは中学の頃から大好きで今でもしょっちゅう聴いているよ」と言うと「私、たまたまレット・イット・ビーを聴いていい曲だなあと思ったのがきっかけだったんです」と。ほうほう。「すると、父が実はビートルズファンで家にはアナログレコードやCDも全部あったんです」ということだった。彼女は30代半ばだから「父はもう70代です」ということだ。私は「中学時代にお昼のイージーリスニングでビートルズの『抱きしめたい(I want to hold your hand)』が流れていたんだよ。単なるストリングスの演奏だったけど、サビの部分でいい曲だなぁと思ってからハマったんだ」と互いのファンになったきっかけを教え合った。
さらに彼女の「今でも家を出る時に『デイトリッパー』を聴いたり、運転する時に『ドライブマイカー』を聴いたりします」というのを聞いて、間違いなくビートルズが大好きなんだと確信し、少し驚きもした。私がビートルズファンになってぴったし50年、女性とビートルズの曲を話題にしてデイトリッパーとドライブマイカーという1965年発表のアルバム「ラバー・ソウル」の頃のこの2曲を語った人は初めてだったからだ。普通はへイ・ジュードやイエスタデイ、シーラブズユー、ヘルプ、最近ではインマイライフあたりがよく話題になるくらいで、私より30歳も若い女性が少々マニアックなビートルズの曲を話題にするとは。
私が「子どもたちにも小学生の頃からビートルズを聴かせているのでみんな今でもビートルズは聴いているよ」というと、イマタニさん「私もです。子どもらは初期の曲が好きみたい」と即返答してくれた。二人いてまだ5、6歳らしいが頼もしいねぇ。私が「そうそう、何年か前にあった映画『イエスタデイ』を知ってる?」と尋ねると彼女は知らなかった。「その映画、実は子どもに教えられてネット配信で観たんだ、ビートルズファンなら絶対に面白い映画でさー、歌手のエド・シーラン本人が出てきてビートルズの曲と曲対決もするんよ(→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2020/09/10line.html)」などとその概要を教えた。彼女はNetflixとAmazon Primeに入っているということで、私が調べて「Amazon Primeにはその映画あるよ」と教えて上げた。そんなこんなで入院指示がしばし滞ってしまった。でも身近にビートルズファンがいて嬉しかったんだよ。
たまたま口走った「特Bはレット・イット・ビー」って地口言葉から世界が広がった。いやぁ「ひょんなことから」って言葉があるけど「特Bはレット・イット・ビー」はまさしく「ひょん」だったわ〜。
2024年11月26日火曜日
北朝鮮の生活を暴露する

2024年11月25日月曜日
ブラザーズ
2024年11月24日日曜日
葬儀を終えて
葬儀は昼12時からだが、10時過ぎには葬儀会場に行った。ちょうど同じタイミングで沖縄からギボヒサコの弟のキシュン叔父さんとその長男きいちご君が到着していた。沖縄からはこの二人だけの参列で、きいちご君から聞いたところ、キシュンは「ぜがひでもヒサコのお顔を見ておきたい」 と切望したのだそうだ。そして、棺のヒサコのお顔をじっと見つめること数分。80年以上ともに生きてきて、様々な思いがこみ上げてきたことだろう。
葬儀が始まる前は親戚、家族とお互いに写真を撮りあった。思えば家族そろっていっしょに写真を撮るって最近では滅多にない。今回は家族5人の写真をたくさん撮ってもらった。ギボヒサコを含む6人がいっしょに写った写真を探したが意外に少なかったんだ。今朝、ようやく阿蘇ファームランドで撮ってもらった6人いっしょの写真を見つけプリントして棺に納めた。写真ってやっぱり大事だわ。葬儀が終わったら火葬のために小山田にある北部斎場に向かった。キシュン叔父さんらはとんぼ返りで沖縄に帰った。この後の火葬、収骨、初七日法要と夕方まで付いてくれたのはヒラーキ夫妻とレッドサキブラザーズの3人だけだったが、気心知れた親戚と故人を偲びつつこじんまりといい葬儀だった。夕食も法要の中で済ませて、位牌や骨壺の片付けをして一段落だ。子ども3人はゲンちゃんを抱っこしてちょいと騒ぎ、まるで14年ほど前に戻ったかのようだった。
14年前、テルに拾われ我が家の一員になったゲンちゃん、テルちんが来ると今は逃げるほどになっているが、3人が相手じゃ捕まっちまったねぇ。子どもたちは葬儀を終えて少しはじけちゃったかな。そうそう、アガサ・クリスティーの作品中、大好きな「葬儀を終えて(1953年)」から今日の日記タイトルを借りることが出来た。誰も「だって、ヒサコは殺されたんでしょう?」とは言わなかったけれどね(笑)。2024年11月23日土曜日
通夜の日、なにかと忙し
今日は午後から通夜の準備、本番とあるので午前はゆっくりするつもりだった。朝は少し寒いし布団の中でむにゃむにゃしていた。すると、下からカールが「テルくん、病院から電話よー」と、固定電話の受話器を2階まで持って来た。今日は葬儀関連で当直も交代していると通知していたはずだが。それでも私に連絡してくるということは・・。
「先生、4階病棟の□△です。〇〇さんが下血して血圧も低下してヘモグロビンも5.5まで下がっていてー」と慌てた口調で伝えて来た。私が休みだと知っているので他の内科Drにも連絡したそうだが都合がつかなかったそうだ。私は「内視鏡室スタッフが一人は必要。すぐにスタッフの誰かに連絡してくれ。で、今何時?」「9時過ぎです」「え、8時過ぎくらいかと思っていた。まあ、いい。10時50分くらいには内視鏡検査が出来るように準備を。そして輸血も400ml2パックを他のDrに頼んで注文しておいて」と指示した。ここ最近、時間外の緊急内視鏡はほとんどしていなかったが、今回は自分の受け持ち患者でもあり、これまで2回も十二指腸潰瘍出血の内視鏡治療を行ってきた。それでも再々出血したか。今度こそ3度目の正直だぜ。
内視鏡室は五月鍋Nsが来てくれていた。なんでも朝早くから美容室に行き、まさに髪のセットを受けようとするところを呼び出されたんだそうだ。いやいや迷惑をおかけします。内視鏡で覗くと、潰瘍からの出血はすでに止まっていて血液付着はどこにもなかった。しかし露出血管の一つがまだ赤く残存していてそこを止血剤とクリップを掛けることでどうにか止血出来た(と思う)。
帰宅してカールが言うには、個人をしのぶパネルに書く追悼文はいったん葬儀社の係の人が雛形の文章を書いてくれたが、カールがそれをやや気に入らず、テルがほぼ全文を書き換えてくれたという。それをネット経由で葬儀社に送ると後わずかな字句の訂正のみでOKだったそうだ。ほう、なかなかやるね。
通夜の準備に行く前に、私とカールは鹿児島市長選の期日前投票を済ませた。明日が投票日だけれど何かとせわしないので今日にした。無論、下鶴隆央候補者へ一票を投じたよ。
この後、家族みんなでお菓子とお茶の買い出しに行き、明石屋にも寄ってお菓子を買った。葬儀場では家族控え室に入った。今晩はここで泊まれるように収納式のベッドもあった。冷蔵庫、シャワーなど並みのホテルより上等な設備だった。
通夜は17時からで読経が終わり、訪れた弔問の人たちが神妙な面持ちで死化粧されたヒサコのお顔をのぞいたりしていた。弔問客はほんとに近しい親族のみので10名もいないくらい、他は4年間お世話になった老人施設の職員たちのみだった。施設長だけでなく6名も来られて少々驚いた。聞けばヒサコは施設でも人気者だったらしい。いろいろエピソードを聞くと、決して人の悪口は言わず、よく話を聞いていた人柄がそうさせたのだろうと思った。カール聞くところによると「施設で長らく飼っていた白黒ネコのテンちゃんが亡くなった時に可愛がっていた職員が悲しんでいたのでいっしょに泣いていた」んだそうだ。「ヒサコはネコが嫌いだったのにね」とカールは笑って言う。そうそう、4年前の入所時「ここにはマヤー(沖縄でネコのこと)がいるよ〜」と少し顔をしかめていたんだった(笑)。残った親戚らと食事とお茶を飲みつつ、しばし故人の話題や親戚の人たちのことなどを語り合った。もう親世代で残っている人たちはほぼ90歳以上だ。ヒサコは満88歳で若い方だった。
20時になりしばしの通夜振る舞いはお開きとなった。死亡広告を出していないのでこの後も弔問客が来るとは思われず、私たちも控え室に戻った。夜は家族全員か少なくとも一人は居残りしないといけないが、相談の結果、子ども3人が残り、私とカールは帰宅することにした。私はシャワーの後、こてる日記を書かねばー。しかし疲れが残り、仮眠、覚醒、仮眠でどうにか書けてよかった。明日1日、まだ葬儀は続く。2024年11月22日金曜日
家族全員そろうのは・・
昨夜の疲れからそのまま居間で寝込んでいた私、ハナビが廊下と居間をつなぐドアを叩き引っ掻く音がやかましく目が覚めた。その音でカールやテルも目が覚めたらしい。午前4時半頃だったかな。当然まだ眠いので私やカールはウトウトとしたままだったが、テルがそこからスイッチが入ったようだ。5時過ぎて居間をウロウロし始め、チッチを起こしに行った。そして「おい、起きろ。今からカレー作るぞ」だって。弟からしたらいい迷惑だ。私も驚いて「はあ、こんな時間(午前5時半)にカレー作るってか」と起き上がって台所を見た。
いや、結構見事な包丁さばきだ。チッチも内心はともかく素直に手伝っている。昨日購入したカレースパイス5種類もどう使うのかは見ていなかったが、ほどなくしてカレールーが出来上がった。ご飯も6合も炊いていて皿いっぱいについで二人して食べ始めていた。この後、私にも作ってくれた。カールの作るカレーとは結構違っていて確かに本格的な味がした。朝からたっぷりのカレーを食べるのは多少のきつさもあったが嬉しくないはずはない。子どもっていつの間にか成長しているんや。今日は13時から打ち合わせが葬儀社であり、セージも合流した。朝の飛行機で来鹿しカールが空港まで迎えにいったのだ。職員から通夜から葬儀の流れの説明を聞き、どの祭具を選ぶか、パネルに使う写真はどれにするか他諸々のことを子どもやカールが決めていった。私は途中から睡魔に勝てずずっとウトウト。このあたりも子どもらの成長に助けられたな。
↑手前のカメラは注文して約1年後(!)に届いたPowerShot G7X Mark Ⅲ。前作のG7X Mark IIは6年も使っていてレンズカバーの動きが怪しくなり日付表示も狂うことも多くなっていた。Canonはこのシリーズの製造を止めているようなのでどうにか買えて良かった。ヒサコの前で3人のお得意のポーズ。この後線香をまた上げて17時前に葬儀社を出た。明日は午後からまた忙しくなる。夕食はカールが鍋料理を振る舞った。家族全員がそろうとたいていそうなる。よくよく考えれば、5人がそろうのは3年前のセージの結婚のお祝いの時以来だ。今後もそうそうはないかも。今回はギボヒサコのおかげだ。彼女の死は家族のあり方を強く考えさせられることもでもあった。
2024年11月21日木曜日
ギボヒサコ、みんなを集める
今日は午前午後とも内視鏡担当の日だった。しかし午後の検査をできるだけ早く終わらせるようにし、もう1件の追加検査も13時を過ぎても続けた。で、急いで昼食を摂り、病院を早退した。鹿児島市内の米森病院へ昨日緊急入院したギボヒサコのことが気になっていたのだ。
しかしカールからのLINE連絡で「ママ、血圧40台になりました。チッチのお迎え行けそうですか?」とあったので、いまわの際に間に合うか怪しくなった。チッチは飛行機で夕方16時過ぎに空港到着なので私が迎えに行くのは大丈夫だろう。テルは16時20分の新幹線で鹿児島に着くということ。セージは旅行中で今夜にしか帰って来られず、明日早くに飛行機で駆けつけるという。
昨日の昼、ヒサコの入所している施設から連絡があり、脳血管の発作を起こしているようだとのことだった。こんな場合、この前までは青雲会病院へ救急搬送していたが、ちょうど脳外科Drがその日は一人しかいないの上に私も忙しく、カールに「鹿児島市内の救急を受け入れてくれる病院に救急車で運んでもらったほうがいい」とアドバイスし、与次郎ヶ浜の米盛病院に搬送されたのだった。結果、脳幹出血と判明し、もう助からないと宣告され、当初は延命措置は受けないとカールは考えていたが、現場で日頃面倒を看てもらっている施設の人とも相談し、気管挿管と人工呼吸での対応を受け入れ、孫たちの集まるのを待つことにした。しかしみんな県外在住で急いで予定変更し鹿児島に向かうことにしたものの3人とも間に合いそうにない。私ですら厳しい。姶良から10号線を下っている途中に電話で「もうだめみたい」と来て、その後は連絡は取らなかった。
病院に着くと、受付で案内の人に「伺っています。後を付いて来て下さい」と5階病棟に向かった。カールはロビーの椅子に座っていて「13時47分だった」と。その後、病室に入るとすでにベッドで静かに眠っているヒサコがいた。やはり以前のふくよかなお顔ではなかった。カールに施設の担当の人から電話がかかってきた。死亡時刻を伝えたり、お世話になった話などしているとカールは涙顔になった。さっきまで涙は見せていなかったのにー。
14時過ぎには私は早くも病院を出た。空港に向かってチッチ拾い、その足で今度は中央駅でテルを乗せる予定だ。葬儀屋は15時半に迎えに来るそうだ。17時ごろ、二人を乗せてセルモ玉泉院中央会館に着いた。入ると、家族控え室にすでにヒサコは置かれていて、テルがベールを剥がしチッチともども祖母の姿を見つめていた。今後のことだが、本来なら明後日あたりが告別式かと思ったら友引にあたるため、明日22日に打ち合わせ、23日通夜、その次の24日を家族葬で告別式にするとのことだった。となると、23日は私は病院の日当直に当たっているため誰かに代わってもらわねばならない。明日は午前までの仕事をして午後は休みをもらおう。カールも「忙しくなる」と言い、ご飯も作る余裕がないようだった。と、テルが「明日の食事はボクがカレー作るから」と言ってくれてその材料をすぐ近くのスーパーに私と買い出しに出かけた。夕食は「寿司にしたい」とのことで4人で食べに行った。葬儀屋の人が「今日はゆっくりと休んで下さい。明後日から忙しいですから」と気遣ってくれたが、今夜からすでに忙しさは始まっているようだった。
2024年11月20日水曜日
火野正平とこてる日記
2024年11月19日火曜日
プーさん病院地域医療連携会
2024年11月18日月曜日
血まみれな月曜
当直の深夜、救急車は来なかったが病棟からの連絡はわりにあった。それが私の受け持ち患者のうち大腸憩室から1人、十二指腸潰瘍から1人確かに出血を来しているという所見やデータがあり、明日は内視鏡を追加しなきゃなと思いつつ寝込んでいた。午前7時半前に救急車で来た高齢御婦人は当初は右の胸痛という訴えだったが、救急外来で安静にしていたら頭痛嘔吐納手があった。頭部CTを撮るとなんと脳出血が判明。すぐに脳外科に連絡して入院となった。昼に内視鏡をやっていたら、さらに回復期病棟の患者が黒色便が出て貧血を起こしているという。うわ、この人は1週間ほど前に十二指腸潰瘍出血があった人だ。再出血か。しかし検査は明日することにした。今日の午後は早帰りなんだ。
なんとも血まみれな月曜なこと。
結局、早帰りといっても病院を出られたのは15時半を過ぎていた。帰宅してもカールは不在で、例のREGZA65型を宅配の店に運びに行っているのだった。一人では当然無理でヨカトモ従兄やヒトミンチョ従妹に手伝ってもらっていた。ありがたい。
私は75型REGZAを付けてタイムシフトで過去番組を流しつつウトウト。血なまぐさい月曜から少しでも身体をきれいにしていく気分でしたよ・・。
2024年11月17日日曜日
REGZA75Z870Nを設置したぁ
さてやっと届いたREGZAの75Z870N 、これのセッティングをしないとー。しかしまずはREGZA65Z740XSを片付けるのが先だ。実はこのTVはまだ十分に使えるので沖縄の別宅に送ってそこに据えるつもり。沖縄の古い42型REGZA(2008年製)が壊れたので玉突きのように鹿児島のお古を送って利用するわけだ。
保存してあったREGZA65Z740XSの専用梱包段ボールを持って来て床に置いたら、早速ゲンちゃんとハナビがやって来たよ。ネコにとって段ボールの中って興味津々でしかない。まずはゲンちゃんからだ。
ゲンちゃんが出たら今度はハナビが侵入する。それをカールとゲンちゃんがのぞき見する。しばらくすると、警戒心を解いたゲンちゃんにハナビが例のごとく背後を狙っている様子が・・。しかし結局は何事もなく終わった。65型の台座を外し、付随しているハードディスクを外し配送可能の状態にTVを段ボールに入れた。ここまでで結構疲れ、汗もかいた。しかし、まだ75型を取りだしセッティングする作業が残っている。この時にはネコ2匹は居間から追いやった。ネコのを手を借りたいどころかお邪魔でしかないのでね。↓台座を取り付ける様子。座った後、立ち上がると少しクラクラする。汗かいて脱水気味から低血圧になっているんだろう。2時間程度でほぼ据え付け作業を終わり、昼食を摂ったがまだハードディスクの取り付けが終わっていない。↓NHKBSで剱岳や黒部渓谷の錦秋風景をやっていた。これまでのREGZAより色合いが鮮やかだ。タイムシフトマシン用のハードディスク設置が終わり、しばらくして鹿児島県高校サッカーの決勝戦をタイムシフトで試合開始から見てみた。全く問題ない。今回は8テラの容量にしたので1週間以上は持つと考えている。通常録画用のハードディスクは沖縄のTVのやつをカールに持って来てもらう予定。何事もムダがないようにしなくちゃネ。さて、夕方から病院当直が組まれていた。その前におニューのTVでAmazon Primeを開き、今年1番面白かった韓ドラ「私の夫と結婚して」の第1話を見始めてみた。画像チェックとせっかくだからカールにも見てもらおうとの魂胆も。ネット画質も明らかに4年ほど前の機種REGZA65Z740XSより綺麗だ。言われなければネットの番組だとは気づかない。1話が終わったところで「そろそろ病院に行かないと間に合わない」と私は出かけた。
後で、カールに聞いたら「テル君たらもう、おかげで(いつも見ているTVドラマの)『坂の上の雲』は見なかったし、結局7話まで見て他のことが何も出来なかった」とドハマリしたんだそうだ。だろーね。タイムスリップした主人公が悪人たちにやり返す、まるでサイダーのようにスカッとするドラマだって世界的に人気なったもんね。↓掃除機も片付けないでゲンちゃんといっしょに「私の夫と結婚して」を見ているカール。
75型はそら大きいがもともと居間が大きめなので違和感は全くない。65型の時の方が42型からのアップだったので大きくなったと感じた。いつも言っているがTVの大きさはすぐに慣れる。買ったばかりだが、かなりお気に入りのREGZA75Z870Nだわ〜。2024年11月16日土曜日
勤か休か待か
今日の土曜は仕事はなく休みだった。で、朝はすぐには起きず、布団の中でうだうだとしていたら・・病院の外来のホットウォーターNsから電話があった。
「先生、今、家ですか」「ああ、そうだけど(まだ布団の中とは言えない)」「今日は外来担当日ですよ。しかも救急ピッチ当番も」「ええーっ、休みだと思っていた。誰か(外来診察に)来ていないか」「いいえ。内科を診る人誰もいませんよ」「ちょ、ちょっと待って。確か誰かと診察は交代した気がするんだが」「うんもう、誰もいないから早く来て下さいよ〜」
そんな言われてもー。時刻はすでに午前9時半にもなろうかだ。早く当直表を確かめなくては。その前にヒゲを剃って、着替えも持ってから下に降りた。まず手帳を見ると今日は確かに休みだった。そして「勤」の字を消していた。ああ、最初は勤務だったんだ。当直表を確認する。ほう、合い言葉Drと交代していた。そうだった。合い言葉Drが2週間後の土曜勤務が都合悪く、私に「今日の土曜と交代してくれ」と先月頼まれたのだった。ただ、その変更を当直表に反映させていなかったのは私のミスだ。
すぐに病院外来に電話をし、経緯を話した。合い言葉Drは泌尿器科なので内科外来にDrはいなくて当然だった。ふぅ〜、あせったぜ。
今日はこの前注文していた液晶TV、REGZA75Z870Nが届く予定だった。ネットで最安値の販売所から注文し30万円台だった。今回は画面サイズアップをしたくて前回65型を75型にすると決めていた。単にそのサイズなら今時20万円を切る製品もあるが、私の場合24時間録画可能のタイムシフトマシン付きでないと絶対にダメだ。となると今年新発売の中からはこれとさらにその上のREGZA75Z970Nしかない。75Z970Nは40万円以上もする。私は最上級クラスにこだわるタイプではない。また前回買った65型のREGZA65Z740XSは型落ちでその時点で全国最安値(19万円台)をゲットしたものだった。75型の型落ちも・・と調べると75Z870Mは29万円前後だった。型落ちにしては最新型と値段の差が1、2万円ほどしかない。ならば最新型だ。そうだその前の検討課題として画質がいいといわれる有機ELタイプはどうなのか?有機ELにすると同じサイズでも液晶に比べ10万円くらい値段が上がる。最近の液晶はmini LEDとかいうのを使って画質も向上してるそうだし、だが・・REGZAの有機ELには75型がなかった。これは決定的で論理的にREGZA75Z870Nにならざるを得なかったのである。2024年11月15日金曜日
入れ歯よい
今日は鹿児島で消化器系の地方学会が開かれていた。私は今回は参加しなかったが、本日内視鏡担当の非常勤オルドリバDrがスライド発表があるとのことで休みだった。そこで私が午前10時過ぎから外来業務を休止して内視鏡の手伝いに行った。多くは人間ドックの胃カメラで粛々と進んで行くも、12時過ぎに外科Drからちょっと面倒な依頼が来た。
「70代男性で入れ歯を呑み込んだんだそうです。レントゲンとCTを今撮っています。内視鏡での摘出が可能でしょうか」
部分入れ歯なら何回か取ったことはあるが・・レントゲンを見ると一応部分入れ歯だ。喉の奥から食道にかけて引っかかっているようだ。うーん。
こういう尖った部分のある異物は摘出する際に消化管の粘膜を裂傷させる危険性がある。食道には3ヶ所ほど狭くなる部位があり、喉と食道の境界部は特にそうだ。外科のDrがCTも指示していて少し待機の時間があり、その間文献など調べてみると、結構な確率で外科手術に回されて摘出というケースが多かった。しかしまあ見てみないことには始まらない。この患者さんは要介護4で認知もあるとのことだった。施設の職員が朝、入れ歯がないことに気づくも本人は「呑み込んでいない」と返事したそうだ。しかしどこにも入れ歯は見つからないので病院に連れてきた。結果は見事に呑み込んでいた。で、家族に「内視鏡で取れなければ手術も・・」と念のため釘を刺しておいた。あ・・ちょっと例えが悪い。念を押しておいた。摘出するために鉗子も把持鉗子と使うかもしくはトラペゾイド鉗子でからめて取るか、はてはゴム手袋をうまく使って覆うようにして取る方法は・・なんてことも内視鏡室スタッフは話していた。いろんな思いが交錯する中、内視鏡先端にフードを付けて挿入が開始となった。
「あれ?」
意外にも口腔から喉のちょっと奥すぐに入れ歯は見えた。これは把持鉗子でつかんで引けば簡単に取れそう。
2024年11月14日木曜日
佐々木朗希を非難する前に
2024年11月13日水曜日
国分生協病院懇親会
2024年11月12日火曜日
「ガメラ対ギャオス」
2024年11月11日月曜日
昭和の子ども
最近、青雲会病院の年報冊子が届いた。メインは各部署の実績などが記されている。私も消化器内科部門を書いた。それとは別に、可愛いんだ理事長とラブカメ理事の一文が冒頭に載っていて、特にラブカメ先生の人生80年を振り返っての内容「傘寿を迎え、わが身を振り返る」が面白かった。
先生は昭和19年(1944年)生まれで鹿児島市は天保山の近くで生まれたという。そしてすぐに母親の実家の大口に疎開したそうだ。なんと、その時期カールの母親ギボヒサコも沖縄から大口に縁故疎開していた。その頃ヒサコは小学4年で古い写真1枚が残っている。↓の写真はおそらく昭和21年3月の頃の小4のクラス写真だろう。みんなおかっぱ頭でどの子がギボヒサコか不明である。
戦後2年くらいまでは母と娘3人息子1人は大口にいて、沖縄に帰ったのが昭和23年初めくらいで、昭和17年生まれのヨーコバーバなどその時は鹿児島弁しかしゃべれなかったそうだ。ただし、生まれ育った那覇市は規制もあり、すぐには帰れず、当時沖縄の政治、人流の中心だった石川市(現うるま市)に移った。それは沖縄に残っていた父親(カールの祖父)が勤めていた「うるま新報(現;琉球新報)」社が石川市にあったからで、昭和23年夏に那覇に移転したのを契機に一家も本来の那覇市に戻れたということのようだ。ヒサコの母のミネキヨさんは大口の写真屋の男性に「あなたの旦那さんは沖縄戦でどうせ亡くなっているはずだから私といっしょにならないか」なんて迫られたエピソードもあったとか。
ラブカメ先生の話に戻ると、記憶があるのが今も上荒田にあるルンビニ幼稚園の4、5歳頃からで、進駐軍のジープを追いかけてチューインガムを投げてもらって喜んでいたことを鮮明に覚えているという。なんと、戦後の子どもたちによくあるシーンではないか。ギブミーチューインガム!ギブミーチョコレート!きっと下の写真の中にラブカメ少年もいたのだろう。
荒田八幡の電車の通る場所は少し小高くなっておりそこは子どもらの格好の遊び場だったそうだ。そしてその次にこう書かれていた。「また、自転車で飴を売りながら走る紙芝居に夢中であったことも鮮明に覚えている」
うわ〜、これも戦後の子どもたちの楽しみの一つであったとよく本や記事に書かれてある。そしてこの紙芝居というのが私が小学校低学年の昭和40年前半まででほぼ廃れたのだが、私はかろうじてその紙芝居屋さんを見たことがある。その頃はもう滅多にいなくて天文館公園で見かけたのは1、2回だけだった。おっちゃんがカチンカチンと拍子木を鳴らすと子どもたちが集まってくる。しかしすぐには紙芝居は始めない。5円か10円くらい払うと割り箸に水飴とパリパリした薄いお菓子をくるりと付けてくれる。つまりは水飴代を払えば紙芝居を見ることが出来るんだ。だから子どもたちが7、8人からそれ以上集まるとようやく紙芝居は始まる。だが、私は払った記憶がない。払わなくても遠くから紙芝居を見ることは出来たのである。
ラブカメ少年の小学生時代は昭和20年代だからテレビもない時代だ。最盛期には全国で5万人ほども紙芝居屋はいたらしい。少年が熱中したのもわかる。私の小学生時代は当然テレビやマンガ全盛で紙芝居屋は非常に珍しく、逆にそれで記憶に残っている。ラブカメ少年は八幡(やはた)小学校に入った。なんと丸坊主の頭にDDTの粉を撒かれたんだと。いや、これも戦後に行われていたノミ、シラミ退治の一事業だった。発疹チフス予防に効果がありそれで命を救われた人も大勢いるだろう。ただ、この薬剤はその分解物(DDE、DDA)が、環境中で非常に分解されにくく、また食物連鎖を通じて生物濃縮されることがわかり、そのためわが国では1968年(昭和43年)に農薬(製造販売)会社が自主的に生産を中止し、1971年(昭和46年)には販売が禁止されている。ただDDTの発明者であるP.H.ミュラー博士(スイス)は、1948年にノーベル医学・生理学賞を受賞しているくらい有効な薬剤であった。
さらに入学すると方言をしゃべることに厳しく指導を受けたんだそうだ。「方言を話したら「方言を使った人」と書かれた札を首からぶら下げられた」という。沖縄でもあったいわゆる方言札だ。沖縄の場合、差別の問題もあってこれはよく問題になるが、鹿児島や東北でも同様の指導はあったのだ。実は昭和40年代の私の小学校(鹿児島市松原小学校)でも方言札こそなかったが、その週の努力目標に「方言を使わないようにしましょう」などといった指導がよくなされていた。今では方言は貴重な地方の文化として扱われているというがねぇ・・。
ラブカメ少年は、「この時代、学校での勉強に関する記憶は全然なく、道路での陣取り合戦や荒田八幡(あらたはちまん)神社で暗くなるまで遊びまわったことが懐かしい」と書いてある。私も天文館公園や松原神社で暗くなるまでよく遊んだ。その頃の遊びが今となっては財産にすらなっていると思える。あの頃は「引きこもり」って子どもはほどんどいなかった。塾に行くこともなく友だちと遊びまわることで、人との付き合い方や何もなくても工夫すれば楽しみなんていっぱいあることを自然と学んでいたのだ。勉強は後からでも出来る。しかし小学時代の遊びはその頃にやっていないと後からでは出来ないものなんだ。
私とラブカメ先生とは15歳の差があって、さすがに疎開や進駐軍、DDTは経験していないが、同じ昭和の子どもとしての共通項、共感を覚えたのだった。