いやー、分かるわ。私たちもゲンちゃんを置いて逃げるなんて考えられない。イヌやネコを飼っていない人には分からないかもしれないが・・。
今日は休日でゆっくり出来るはずだったが、明日また朝礼スピーチがありそのスライド作成に追われた。前回6月は「人生の節目を振り返る〜結婚編〜」だった。で、今回はその流れで「人生の節目を振り返る〜還暦編〜」にするというのだけは決めていた。でも1枚目を作って数日、なかなか先へ進めない。還暦までの自分の歴史と今後どう生きていくかを語ればいいだろうと考えるがどうにもまとまらなくて。
それでふと思ったのが論語にある孔子の人生の節目を振り返った有名な言葉だ。
「吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従えども、矩(のり)をこえず」現代語訳すれば「 私は十五才になったとき、学事に心が向かうようになった。三十才に至って独りで立つことができた。やがて四十才のとき、自信が揺るがず、もう惑うことがなくなった。五十才を迎えたとき、天が私に与えた使命を自覚し奮闘することとなった。〔その後、苦難の道を歩んだ経験からか、〕六十才にもなると、他人のことばを聞くとその細かい気持ちまで分かるようになった。そして、七十のこの年、自分のこころの求めるままに行動をしても、規定・規範からはずれるというようなことがなくなった。」といったところか。
15、6才で自分の意思ではないにしろ医学部を目指し、30才で結婚独立したものの医師としての自分にいろいろ迷いがあり40才になって大学を辞め今の病院に入り臨床医としてやっていこうと決め、50才で内視鏡や地域医療が自分の仕事だとはっきり言えるようになり、そして60才還暦と、なんだか孔子と同じような人生じゃないか、そうだこれを対比して語ろうと考えた。孔子の言葉から15を「志学」30を「而立」40を「不惑(これは今でもよく使われる)」、50を「天命」、60を「耳順」、70を「従心」と呼ぶ。今は耳順(じじゅん)と言うそうだ。しかしその意味通りに自分が出来ているか?と言われれば・・うーん、全く出来ていない。
例えばつい1ヶ月半ほど前のこと、某患者の家族の初老男性と外来処置室ですごい言い合いになったことがあった。私の電話での応対がなっていないと言うのだ。ある意味忠告してくれたのだが素直には聞けず反発した。そのままだと本当のケンカになってしまいそうなくらいで、側にいた外来看護師らに私は止められその場は収まった。「耳順」の境地だなんてとんでもなく、孔子になぞらえるなど身の程知らず、おこがましいったらありゃしない。ふんふん、話としてはこの線でいい。でも、できればその口論している画像が欲しいな。
それで、その時私を止めてくれた看護師のチュンジョー君と再現写真を撮りたいと思った。でも彼が今日の日当直看護師でいてくれれば可能だが休みだったら諦めるしかない。そう思って病院に電話を掛けた。すると、何と今日は勤務しているという。ほー!これは今から写真を撮りに行けという天命だ、事情を話してすぐに出かけた。それで撮ったのが下の写真だ。口論相手は一般人のおっさんがよかったのだが休みゆえそんな余裕はなく事務当直のショータ君にやってもらい、写真はレントゲン技師のソラナリ君に頼んだ。ややオーバーな表情だが再現ビデオや写真は分かりやすくが一番だからネ!
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