聞けば「14年前の大動脈瘤解離です」と正確な物言いだ。その頃のカルテは紙カルテで12年前から始まった電子カルテには記録が残っていない。患者によれば「鹿児島医療センターまで救急車で付き添ってくれました」とのことで、2005年で私が胸部大動脈瘤解離にたずさわったとなれば確かに夜間救急の時くらいしかない。あはー、思い出した。夜明けに近い頃運ばれ、元無か毛レントゲン技師に来てもらい造影CTまでしてほぼ確定診断をしてから送ったんだった。その際、医療センターのドクターに「ほう、(すでに造影剤用の)耐圧チューブをしている」と感心されたのが印象に残っていた。その後その患者がどうなったのか全く記憶がなかった。たいていは返書が来るものだが・・。
患者の記憶では2005年5月だったとのことで、その頃の「こてる日記」を検索してみた。そんなエピソードならきっと「こてる日記」に書いているいるだろう。すると、あった。読むと、その日の夜は2人の超重症の女性患者(くも膜下出血、胸部腹部大動脈瘤解離)が救急で運ばれていた。空きベッドが一床しかなくそれも夕方の入院希望患者を断っていたからこそ受け入れ可能になっていた。その日の日記(2005/5/20)の後半部分を以下に再掲しよう。
「・・・やれやれと当直室のベッドでまどろんでいたらすでに明るくなり始め、また救急携帯に起こされた。
背中が痛いからと救急要請した中年女性だった。 もう入院させられる余裕はないから引き受けるのは躊躇したが、 診察のみですむ程度の痛みということもあるし、まあ診てみないとわからない。 でも運ばれてきた様子を見てイヤな予感がした。もしかすると相当重症かもしれないぞ。 血圧も高いし痛がり方が半端じゃない。心筋梗塞でないことは症状、心電図で察しが付いた。「大動脈解離」以外なら大したことはない。痛み止めや湿布のみで帰宅させられる・・。
その診断をつけるには胸部レントゲンや胸部CTがどうしても必要だ。 頭部CTは私でも撮影出来るがこうなるとレントゲン技師を呼ばねばならない。 ここは決断した。 結果、胸部だけでなく腹部にも及ぶ解離性大動脈瘤だった。うわっ。 鹿児島の循環器専門病院へ即転送となった。久しぶりに救急車に乗った。
青雲病院に帰って来た時にはすでに朝の始業時間だった。 聞けば、くも膜下出血の人は意識レベルが上がり手術することになったと言う。 それは良かった。一床はまさにこの人のためにあった。だが感慨にふける余裕はなかった。
すぐに仕事は始まり、可愛いんだ理事長に「感心やなあ」と珍しくお誉めの言葉をかけられたがー。 理事長は容赦することなく次から次へと要内視鏡の患者を送ってきたのだった。」
まさにこの患者さんのことだ。「助けていただいて本当にありがとうございます。お礼を言いたかったのですが、実は手術を二度もすることになって半年も入院していたんです」と。そしてその後はずっと鹿児島医療センターがかかり付けで、つい半年ほど前に「地元の病院の通院でいいでしょう」と循環器内科の子作りDrに逆紹介されていた。だから私とは会えていなかった。すっかり忘れていた患者さんではあるが、話を聞いて嬉しいと同時に「これはまたこてる日記ネタだぁ」といっしょに記念の写真を撮ったのだった。
すぐに仕事は始まり、可愛いんだ理事長に「感心やなあ」と珍しくお誉めの言葉をかけられたがー。 理事長は容赦することなく次から次へと要内視鏡の患者を送ってきたのだった。」
まさにこの患者さんのことだ。「助けていただいて本当にありがとうございます。お礼を言いたかったのですが、実は手術を二度もすることになって半年も入院していたんです」と。そしてその後はずっと鹿児島医療センターがかかり付けで、つい半年ほど前に「地元の病院の通院でいいでしょう」と循環器内科の子作りDrに逆紹介されていた。だから私とは会えていなかった。すっかり忘れていた患者さんではあるが、話を聞いて嬉しいと同時に「これはまたこてる日記ネタだぁ」といっしょに記念の写真を撮ったのだった。
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