最近、青雲会病院の年報冊子が届いた。メインは各部署の実績などが記されている。私も消化器内科部門を書いた。それとは別に、可愛いんだ理事長とラブカメ理事の一文が冒頭に載っていて、特にラブカメ先生の人生80年を振り返っての内容「傘寿を迎え、わが身を振り返る」が面白かった。
先生は昭和19年(1944年)生まれで鹿児島市は天保山の近くで生まれたという。そしてすぐに母親の実家の大口に疎開したそうだ。なんと、その時期カールの母親ギボヒサコも沖縄から大口に縁故疎開していた。その頃ヒサコは小学4年で古い写真1枚が残っている。↓の写真はおそらく昭和21年3月の頃の小4のクラス写真だろう。みんなおかっぱ頭でどの子がギボヒサコか不明である。
戦後2年くらいまでは母と娘3人息子1人は大口にいて、沖縄に帰ったのが昭和23年初めくらいで、昭和17年生まれのヨーコバーバなどその時は鹿児島弁しかしゃべれなかったそうだ。ただし、生まれ育った那覇市は規制もあり、すぐには帰れず、当時沖縄の政治、人流の中心だった石川市(現うるま市)に移った。それは沖縄に残っていた父親(カールの祖父)が勤めていた「うるま新報(現;琉球新報)」社が石川市にあったからで、昭和23年夏に那覇に移転したのを契機に一家も本来の那覇市に戻れたということのようだ。ヒサコの母のミネキヨさんは大口の写真屋の男性に「あなたの旦那さんは沖縄戦でどうせ亡くなっているはずだから私といっしょにならないか」なんて迫られたエピソードもあったとか。
ラブカメ先生の話に戻ると、記憶があるのが今も上荒田にあるルンビニ幼稚園の4、5歳頃からで、進駐軍のジープを追いかけてチューインガムを投げてもらって喜んでいたことを鮮明に覚えているという。なんと、戦後の子どもたちによくあるシーンではないか。ギブミーチューインガム!ギブミーチョコレート!きっと下の写真の中にラブカメ少年もいたのだろう。
荒田八幡の電車の通る場所は少し小高くなっておりそこは子どもらの格好の遊び場だったそうだ。そしてその次にこう書かれていた。
「また、自転車で飴を売りながら走る紙芝居に夢中であったことも鮮明に覚えている」
うわ〜、これも戦後の子どもたちの楽しみの一つであったとよく本や記事に書かれてある。そしてこの紙芝居というのが私が小学校低学年の昭和40年前半まででほぼ廃れたのだが、私はかろうじてその紙芝居屋さんを見たことがある。その頃はもう滅多にいなくて天文館公園で見かけたのは1、2回だけだった。おっちゃんがカチンカチンと拍子木を鳴らすと子どもたちが集まってくる。しかしすぐには紙芝居は始めない。5円か10円くらい払うと割り箸に水飴とパリパリした薄いお菓子をくるりと付けてくれる。つまりは水飴代を払えば紙芝居を見ることが出来るんだ。だから子どもたちが7、8人からそれ以上集まるとようやく紙芝居は始まる。だが、私は払った記憶がない。払わなくても遠くから紙芝居を見ることは出来たのである。
ラブカメ少年の小学生時代は昭和20年代だからテレビもない時代だ。最盛期には全国で5万人ほども紙芝居屋はいたらしい。少年が熱中したのもわかる。私の小学生時代は当然テレビやマンガ全盛で紙芝居屋は非常に珍しく、逆にそれで記憶に残っている。
ラブカメ少年は八幡(やはた)小学校に入った。なんと丸坊主の頭にDDTの粉を撒かれたんだと。いや、これも戦後に行われていたノミ、シラミ退治の一事業だった。発疹チフス予防に効果がありそれで命を救われた人も大勢いるだろう。ただ、この薬剤はその分解物(DDE、DDA)が、環境中で非常に分解されにくく、また食物連鎖を通じて生物濃縮されることがわかり、そのためわが国では1968年(昭和43年)に農薬(製造販売)会社が自主的に生産を中止し、1971年(昭和46年)には販売が禁止されている。ただDDTの発明者であるP.H.ミュラー博士(スイス)は、1948年にノーベル医学・生理学賞を受賞しているくらい有効な薬剤であった。
さらに入学すると方言をしゃべることに厳しく指導を受けたんだそうだ。「方言を話したら「方言を使った人」と書かれた札を首からぶら下げられた」という。沖縄でもあったいわゆる方言札だ。沖縄の場合、差別の問題もあってこれはよく問題になるが、鹿児島や東北でも同様の指導はあったのだ。実は昭和40年代の私の小学校(鹿児島市松原小学校)でも方言札こそなかったが、その週の努力目標に「方言を使わないようにしましょう」などといった指導がよくなされていた。今では方言は貴重な地方の文化として扱われているというがねぇ・・。
ラブカメ少年は、「この時代、学校での勉強に関する記憶は全然なく、道路での陣取り合戦や荒田八幡(あらたはちまん)神社で暗くなるまで遊びまわったことが懐かしい」と書いてある。私も天文館公園や松原神社で暗くなるまでよく遊んだ。その頃の遊びが今となっては財産にすらなっていると思える。あの頃は「引きこもり」って子どもはほどんどいなかった。塾に行くこともなく友だちと遊びまわることで、人との付き合い方や何もなくても工夫すれば楽しみなんていっぱいあることを自然と学んでいたのだ。勉強は後からでも出来る。しかし小学時代の遊びはその頃にやっていないと後からでは出来ないものなんだ。
私とラブカメ先生とは15歳の差があって、さすがに疎開や進駐軍、DDTは経験していないが、同じ昭和の子どもとしての共通項、共感を覚えたのだった。