2026年8月8日土曜日

西條八十から金子みすゞへ

朝3時半くらいからずーーっと朝礼スライド作りを続けていた。途中、ドジャース対ダイアモンドバックス戦で佐々木朗希の好投眺めたり、甲子園の試合も眺めたりはしていた。しかし頭の中は歌謡曲「王将」のことでいっぱいだ。さすがに昼食後は眠くて仮眠を取ったりはした。また起きて作り続け、17時20分、一応の完成をみた。ふう〜。

まだ全体の3分の1ほどしか作っていない時に、カールにスライド発表形式で見せてみた。私の「偏愛」する歌の紹介(「ビートルズ」「昭和歌謡」「童謡唱歌」)から始まり、「王将」の歌手村田英雄、作詞西條八十、作曲船村徹を呈示し、村田英雄の生い立ちから浪曲とはどんなものか、古賀政男に見出され歌謡界デビューしたまではよかったがなかなかヒット曲に恵まれず、あせりを覚えた村田のスタッフ(浪曲界出身のプロダクション社長、日本コロムビアのレコードディレクター)が戯曲「王将」をテーマに新進の船村徹に曲を依頼する手はずになった。ただそれまで面倒をみてきた古賀政男には一言伝えねばならない。意を決して伝えるも、案の定古賀は「君たちは浪曲出身なのに義理も人情もないのか!」と激怒した。普通ならここであきらめるところだが、すでにデビューして3年、陣営は切羽詰まっていた。「一応は一言伝えはした」と、残るは作詞を大御所の西條八十に依頼へ・・。

で、つぎのスライドは・・全くの空白。「え?!」とカール。「どう、次を見たいか」「うん」「よし」

どうやらつかみはOKだ。今回のスライドで村田英雄と同じくらいの比重を置いたのが西條八十の詩才だ。「王将」を名曲たらしめた根源は一番から三番までの一言一句無駄なく表しきった彼の作詞の素晴らしさにある。日本初の曲がついた童謡「かなりや(♪唄を忘れたかなりやは〜)」さらに戦前戦後の歌謡曲で大ヒットをいくつも飛ばしていることなどもスライドにまとめた。

夭折の詩人金子みすゞが憧れたのも西條八十だ。彼女は八十が選者をしている童謡雑誌に主に投稿をし、八十に「若い童謡詩人中の巨星」と称賛された。その二人は昭和2年に下関駅でたった5分間だけだが会っている。みすゞは憧れの人を前にほとんど口もきけなかったらしい。その時みすゞは愛娘を抱いていた。文学を理解せず放蕩を繰り返す夫とその後離婚の際に愛娘の養育権問題とうつされた淋病のことなどもあり、数年後彼女は弟と八十にだけ自身の詩集(3冊1組)を郵送し服毒自殺をする。それは娘が夫(離婚はしていたが法律上はまだ夫の状態)に引き取られる前日のことだった。その詩集は八十のものは戦争などで紛失したが弟のものは遺されていた。
これが後にみすゞの詩に衝撃を受けた童謡詩人矢崎節夫氏が「幻の童謡詩人」みすゞの作品探しを始めたことで後に日の目を見る。みすゞが亡くなっておよそ50年も経過していた。そこには童謡集3冊が大切に保管されていて、それまでに発表された作品の5倍を超える512編が書き写されてあったのだ。
今ではみすゞの詩は小学校の教科書にも載っていて西條八十より現代の若者にはよく知られている。なお、みすゞの遺児は彼女の望み通り夫ではなく彼女の母に育てられることになり数年前に95歳で亡くなっている。

おっと本題は「王将」のはずなのにそれが西條八十からさらに金子みすゞに移ってしまった。まあそれくらい名曲がもたらすエピソードは一言では語り尽くせないテーマだ。ともかくも一通り発表スライドが出来てほっとした。今回のスライド作りでプレゼンテーションソフトから音源を出す方法やビデオとの連携の方法も知りいい勉強にもなった。スライド発表なんて面倒だな嫌だなと思ってもそれらをやることで自身が成長出来るものなんだ。そんなことも改めて感じ入ったことだった。

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