2026年9月8日火曜日

髙橋洋一センセイ、大谷を見る

YouTubeでよく見るコンテンツの一つに経済学者の髙橋洋一先生の「髙橋洋一チャンネル」がある。経済、財政、政界についてデータに基づく専門知識に裏打ちされた分かりやすい解説や、既存のメディア報道に対する歯に衣着せぬ批判、そして積極財政(リフレ派)を支持する明快な主張が聞いていて面白い。この日記での先生の話題は2021年のコロナ禍のころによく取り上げた。

今日も経済がらみの話題であったが、前振りで「今、ロサンゼルスにいて、ドジャーススタジアムで試合を見てきた」と野球の話題だった。先生はここ数年、ドジャースと大谷の活躍を見にちょくちょくロサンゼルスに行っている。そしていつも自慢するのが「私が見に行くとドジャースは必ず勝っているんだ」で、今日はシンシナティ・レッズに6対3で勝利していて「これで10回観戦して10連勝だ」と喜んでいた。ただ「ドジャースは全くの貧打で点差は一見あるようだけど3安打しか打っていない。フォアボールと相手のエラーで運良く点が入っただけ」「大谷も調子悪いなぁ。最初の打撃なんか本来ならホームランになっても良かったのにスイングスピードが少し落ちているんじゃないか」などと評していた。ふむふむ、私も試合はちらちらっと見ていたから先生の言い分にも納得出来る。

で、夜22時45分から始まるワースポ&MLBを見ていたら、ドジャースの試合で大谷の第4打席に入るシーンで「あれっ」と思った。背後のバックネット3塁側のプラチナシートに青いアロハ姿で座っているのはセンセイじゃあーりませんか。大谷がバッターボックスに向かっている歩きはじめるとその方に視線を寄せていた(なぜか画像のアップロードが上手く行かない。動画は出来るのだが・・)↓。
ぼさぼさ髪なのは相変わらずだったですな。大谷がここ4試合ほど休んでいて久しぶりに試合に出られて髙橋先生はついている。最近では先生がドジャース戦見に来ると必ず勝つというので「勝利の男神」なんてネットでも言われているそうだ。ふむ、それならもうレギュラーシーズンはほぼ問題ないので大事なポストシーズンのキモの試合にぜひ観戦に行ってもらいたいネッ。よろしく、センセイ!

2026年9月7日月曜日

SGLT2阻害薬は身をもって腎機能に有効である

昨日9月6日の話題。帝国ホテル大阪での講演会は「慢性腎臓病の患者の悪化をいかに防ぐか」というのがテーマだった。腎臓の専門家が数人講演され、また腎不全になり透析を現在受けている一般の人が自身の経験と「あの時、こう指導を受けていたら」という体験談を交えての教訓も語ってくれた。

非常に興味深い話題、解説があった中で、いくつか印象に残ったのが「日本人(東洋系の人)は1個の腎臓にある糸球体の数が普通は100万個ほどと言われているが実際は平均64万個でこれは欧米の92万個と比べかなり少ない。一度機能が失われた糸球体は元には戻らない。だから欧米人に比べ日本人は腎機能の悪化を来しやすい」んだそうで、世界の中でも人工透析を受けている比率の高い国は1位が台湾で2位が日本なんだそうだ。

腎機能で大事な数値、eGFR(推算糸球体濾過量=腎臓が1分間にどれくらいの血液をろ過して老廃物を排泄できているかを示す腎機能の目安となる数値)が、60未満になると、その後徐々に腎機能が悪化し10年後には取り返しがつかなくなることも多いとか。だから60未満の時に「様子を見ましょう」とか「経過観察」にするのはダメで、今は腎機能悪化を防ぐ薬が開発されたからそれで病気の悪化を防ぐべきということが主眼であった。それを腎臓の専門家だけでは患者の数が多すぎてとても手が回らない。一般内科医にその点を分かってもらってどんどん治療していって欲しいんだって切望していた。

私はこれは他人事ではないと思った。なぜなら5、6年前くらいから毎年の健診で自分の腎機能がやや悪いってことに気がついていた。eGFRが以前は60以上だったのが、50台後半55くらいまで低下してきていた。ただ腎機能が悪いという自覚症状はなかった。いや、これはeGFRが20や30になっても自分ではなかなか気が付かないのが普通だ。だから採血や検尿で自分の腎機能を知ることはとっても大切なんだ。eGFRが15未満になると透析治療がチラついてくる。腎臓専門家は60未満になった時点でなにがしかの治療をすべきと強調していた。

eGFRの数値と慢性腎臓病(CKD)のステージ分類

90以上(G1・正常):しっかり働いています
60〜89(G2・軽度低下):軽度の低下、経過観察
45〜59(G3a・中等度低下):定期受診を推奨
30〜44(G3b・中等〜高度低下):専門医への相談を検討
15〜29(G4・高度低下):腎代替療法(透析など)の検討
15未満(G5・腎不全):透析や移植が必要な状態

↓が私のeGFRの数値グラフ。2022年から2024年までの3年間は60未満だと分かる。eGFRが60未満の状態が3か月以上続くと慢性腎臓病(CKD)と診断されるから、私はCKDのステージG3aで定期受診推奨域にあったわけだ。しかし今回の講演会では「経過観察」や「定期受診」では生ぬるいと演者らの意見は一致していた。というのも数年前からCKDに対し効果のある良い薬が承認され有効性が証明されてきているからだ。
SGLT2阻害薬である。この薬は10年以上前に元々糖尿病の薬として承認された。腎臓での糖の再吸収を抑えて尿と一緒に体外へ排泄し、血糖値を下げる飲み薬だったのだ。ところがこの薬は水分や塩分も一緒に排出することで心臓や腎臓の負担を減らし、心不全や慢性腎臓病(CKD)の進行を抑える効果が臨床試験で証明され、心臓、腎臓の患者にも健康保険での処方が数年前から認められるようになった。実は2023年ごろから私はこっそりSGLT2阻害薬を服用していた。心腎機能にいいとデータが出ていたし、体重も増えにくい特徴もあり、糖尿病はなくても飲むに値すると自身思ったからだ。すると2024年ごろから腎機能がやや改善傾向になってきていた。去年、今年とeGFRが60をぎりぎりだが上回っているんだ。この薬のおかげだったんだと講演を聴いて確信したわー。

ふむふむと納得しながら聴き終わったのであるが、講演中「しまったぁ」とあせってもいた。なんとなれば毎朝服薬しているそのSGLT2阻害薬、ちゃんと鹿児島からもバッグに入れて持って来ていたのにすっかり飲み忘れていたのだ。日頃は朝食時にテーブルに置いているから忘れることはない。でも環境が変われば忘れてしまうんだよ。すぐに飲もうにもバッグはホテルのクラークに預けたままだった。会が終わって懇親会があってそこで昼食を済ませ、13時過ぎてからようやくクラークに行き、真っ先に取り出して飲んだのはそのSGLT2阻害薬1錠であった。ふぅ〜。

2026年9月6日日曜日

ジャンジャン横丁、通天閣、でも大汗かいたのは・・

(昨日9月5日の続き)

ジャンジャン横丁って車は入れない幅のやや狭いアーケードだった。でも入ってすぐに「うわ、ここは昭和か」って思うほどレトロな雰囲気に満ちた横丁って分かった。弓矢打ちや射的の店が五、六店以上もあったんだ。

これ、昭和時代の縁日の露店ではなくてちゃんと建物の中にありしかも日常的に店を構えているってのがちょっとした驚きだった。私は射的は1回もしたことがなかったが、正月の天文館公園でよく見たものだった。それにも増してここは飲食店も軒を連ねていて、焼き鳥など比較的軽めの食事、一杯飲み屋風の店が多かった。喉も渇いていたけれど、夕食には早い時間だったし、ここでの一人での食事はちょっとなぁ・・だった。

それに通天閣見物が今回の主目的だ。そっちを急がねばな。横丁を過ぎてしばらく歩くと右側の通りの向こうに、見えてきたよ〜。まさに通天閣だ↓。
展望台に入るには・・と思って入口に寄っていくと、「滑り台にしますか、展望台にしますか、展望台は入場料は大人1500円です」だと。なんで滑り台なんかと思い、1500円展望台を当然選択した。少し高いかな。呼び込みの職員は「バンジーもありますよ」ときたので「うわ、とんでもない」と断った。何、滑り台にバンジーって。でもエレベーターを並んで待っている間に分かったのは、タワースライダー1100円ってのは案外面白そうだってこと。「ウワーッ」とか「キャーッ」とかの歓声、叫声がすごいんだ。
バンジーは絶対に嫌だが、このスライダーはもし機会あればやってもいいかなと思ったヨ。

さて、通天閣だが、これが展望台に上がるまでがやや大変だった。エレベーターに10名ほど単位で移動させられ、さらに中層階ではビリケンさんとの写真を職員に撮られ、ぐるりと昭和の風情ゆかしき展示物を眺めて歩き、時間が経過したところで「はい、写真が出来上がりました。1枚1500円」とやられる。私は絶対に買うもんかと思って「目に焼き付けときますわ」とだけ返事したが、私の前の2組はどちらも購入していたよ。ぼられてるやろ。

その写真商売が示すように、隙あらば買ってもらおうという仕組みが目立ったなー。エレベーターに乗る前に商品が陳列しているところを通らされるし、普通100m近い階上にあがって展望をするだけのはずが、展望所に着いた時は入口からなんと40分もかかっていたんだ。もう喉が渇いていてさー。眺めは良かったよ。梅田方面を眺めるとさっきまでえらい大きな建造物と思っていた大阪城が周囲の近代建築に囲まれてえらく小さかった。江戸時代には周囲を睥睨(へいげい)していても、21世紀の現代では・・その差を思い知られされた気がした。↓の写真に大阪城が写っているのだが、言われないとどこにあるのかたぶん気が付かない。
マイデジカメの望遠で撮ったのが↓でこれなら大阪城はすぐに分かる。上の写真でもう一度探してみてー。
西側を眺めると六甲山の夕焼けが綺麗だった。
下に降りるのもエレベーター待ちで10分以上も並び、外に出たのは結局入場から1時間10分ほども経過してからだった。ここ以外に急ぐ用事のある観光客は注意が必要だ。

外はさすがに9月ゆえにすでに暗くなっていて「空に灯が付く通天閣」の光景が見られて良かった。

で、夕食だが、ちょうど1680円で牛かつの店があり、そこに入った。で、まずは私には珍しく「生ビール一つ」と頼み、キンキンに冷えたビールをグイッと飲んだ。くーーっ、美味い!
以上で、大阪らしいポイントを一人で観光するイベントは終わってまた電車でホテルへ帰ったのだが、一つだけ一番衝撃を受けたことをまだ書いていなかった。そのびっくり、どっきりを最後に記(しる)しておこう。

それはジャンジャン横丁に入ってすぐのこと、前にいた歩行者二人が「うわっ!」と言って身をかわしたのよ。何だ?と思って、近くを歩いている入れ墨の中年男性を見ると・・。今度は私が「げっ!」。↓の写真では単なる彫り物もんもんのおっちゃんくらいにしか見えないかもしれない。
でも、手にとーっても怖いものを持っていたんだ↓。
なんとニシキヘビを抱えてこの通りをあっちこっちと歩き回っていたんだよ。私は見かけてすぐに逃げるようにその場離れたが、このおっちゃん、また引き返してきて↑の写真が二度目だった。気が付いた周囲の人も驚いて見ているでしょ。

その後、横丁を離れて通天閣へ向かう通りを歩いていると、いやぁー、三度目のすれ違いだよ〜。今度は興味を持った外人さんが「ワタシニモ持たせて〜」と自ら手に持つと、それを見た日本人女性も「私も触ろうっと」と寄ってきていた↓。もう信じられない。
そもそもこんな大蛇を路上で持ち歩いて歩き回るなんて鹿児島では見たことも聞いたこともない。東京なんかでもあり得ないんじゃないかな。大阪だとこれが許される土壌のようなものがあるんだろう。調べたところでは、この横丁が100年以上前は遊郭へつながる道だったり、その後労働者が多く集まる地域だったりでにぎわったが、その後発展が止まったことで、ジャンジャン横丁自体がレトロな観光地として再評価されるようになり、現在は家族連れでも来られる雰囲気になっているとのことだ。確かにその古っぽい雰囲気は嫌いではなかったが、爬虫類、なかんずくヘビはダメだわ。せっかくのレトロ気分が吹っ飛んで早く逃げ出したくなった。夕食の後も最初来た駅ではなく少し遠回りしてJR新今宮駅まで行って帰ったのだった。

ホテルでは備え付けのミネラルウォーターをぐいぐい飲んでもまだ足りず、水道水まで飲んで大汗(‾□‾;)かいた大阪観光をふりかえることだった。

2026年9月5日土曜日

プロペラ、古墳、大阪城

B社主催の講演会が9月6日に大阪であるため、私は昼前に鹿児島空港へ向かった。飛行機で大阪に行くのはいったいいつ以来だろう。九州新幹線が全線開通した2011年以降は神戸や大阪の学会にはほぼ新幹線で行っているから15年ぶりくらいか。今回は熊本地震もあり飛行に限る。全日空を利用したが飛行機に乗る時、何か違和感が・・一段低いところに昇降口があったのだ。窓際に座って外を見て少しびっくり。プロペラ機だったってその時に気が付いた。プロペラに乗るっていつ以来か覚えていないぞ。

30年以上前、種子島の病院に月2回行っていた時はプロペラだった。あと、大学内視鏡室の仲間と長崎での学会に向かう時が雨中のプロペラで、揺れに揺れまくって私は我慢出来ずに「紙袋」にゲロってしまった苦い記憶がある。あと、初めて飛行機に乗ったのが昭和45年の4月1日で大阪の万博に向かうためだった。なんで正確に覚えているかというと、前日にあの「よど号ハイジャック事件」があったからで、それは日本初のハイジャック事件だった。「明日は初めて飛行機に乗るのにー」と緊張とワクワク両方の感情が入り交じったものだ。それがジェット機だったかプロペラ機だったかは覚えていないが、帰りの4月5日はプロペラ機だったと覚えている。窓の下に甲子園が見え、箕島対北陽の決勝戦をやっているんだぁと思いながらいつしか眠ってしまい、スチュワーデスさんに毛布を掛けてもらっていた。

およそ1時間20分の飛行で大阪は伊丹空港に着いた。大阪上空を通る時は古墳群を見るのが楽しみだったが今回は1枚しか写真は撮れなかった↓。
左下に見える前方後円墳は後で調べると「河内大塚山古墳」で日本第5位の大きさだった。その右上付近の前方後円墳は「岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)」だ。↓のネットのマップではピンク矢印から撮影している。
だいたいにおいて古墳ってぜったい空から見た方が面白いんだよな。近くからだとこんもりした公園かなぐらいにしか見えない。↓搭乗したカナダ製のプロペラ機。直に歩いて空港構内に入ったのも久しぶりだ。
伊丹空港からはタクシーで帝国ホテル大阪に入った。開業30周年なんだって。いいホテルなんだがどの駅からも若干歩かないといけなく、この後大阪城と通天閣を見物する予定だったのでそこは少し不便に思った。ホテルの人に聞いて、大阪城と反対方向のJR環状線桜宮駅から大阪城公園駅で降りるといいと知った。8分ほどで桜宮駅に着き、電車で大阪城公園まで6分、やはりそれほど時間はかからなかったが、大阪城一帯は広いのよ〜、歩いて天守閣までほぼ30分かかった。外堀もあって↓の天守閣が見える内堀まで13分。
今の大阪城は豊臣秀吉が創建した頃の城ではなく、江戸時代初期に再建され、天守閣などは第二次大戦後に造られたものと知ってはいるが、石垣などは当時のものなのでそこはやはり見応えがあった。天守閣周辺は外人さんたちが多かったな。旗に先導されてのツアーもあってやはり人気スポットだ。
しかし城内には私は入らなかった。7年前の青森の弘前城は江戸時代からの本物の城だったから入場したが大阪城は外から眺めるだけでいい、というより、もう一つ通天閣と新世界に行くつもりだったので時刻がすでに午後の16時過ぎで時間の余裕がなかったんだ。最寄りのJR森ノ宮駅までまた30分も歩かねばならなかった。へとへと・・それに喉が渇いてきていた。ミネラルウォーターでも自販機で買うか。いや、たかが水に160円も払いたくないと我慢することにした。

地下鉄動物園前に降り立ったのが17時8分で天守閣からちょうど1時間経過していた。やはり入らずにこっちに向かったのは正解だった。スマホのマップで見ると「ジャンジャン横丁」から入っていけば、あの坂田三吉もそれを見て上京前に闘志を燃やしたという通天閣がある。今日は長くなるのでこの後は明日の日記で書こう。ではまた。

2026年9月4日金曜日

ドラマのTVにジョン・マッザがっ!

これは全くの小ネタなんだが、「ブレイキング・バッド」を見ていて、あれ?と思ったシーンがあった。それは主人公ウォルター・ホワイトの義弟にあたる麻薬捜査官が重傷を負って自宅休養中ベッドからTVでボウリングの試合を観戦するシーンだった。それを見た瞬間、私は「おお、ジョン・マッザやん!」と声を上げたのだ。特徴的な風貌から一瞬で分かる。

私がPBA(全米プロボウリング)のトーナメントを熱心に見ていたのは1991年からおよそ10年間で、上のジョン・マッザはその1991年に初優勝を果たし、その後もコンスタントに活躍を続け、タイトルも8個獲得したそこそこ有名な左腕ボウラーだった。優勝もだが最難関スプリットの7ー10をTV放送時にやってみせたことも有名だ→https://www.youtube.com/watch?v=XtDDG5MrxAs

それはいいが、気になったのはこのドラマ、2008年に始まっていて時代設定もその頃のはずだ。とすれば劇中の試合放送でジョン・マッザが出てくるのはおかしい。彼は2000年以降はトーナメントでほとんど活躍せずTVでは少なくとも私は見たことがない。それにちょうどTVから試合中継のアナウンスが聴き取れ、「ジョン・マッザ、9フレーム197ピンでパーカー・ボーンとスコアで並びました。家族に視線をやっています。マッザと言えば子どもが生まれたばかりで・・名前はジョセフ・・」などと紹介していた。そして10フレで4番7番の2ピン残していたが、これって本当の放送を流しているんだろうか?ここでボウリングオタクの血が騒いだ。この映像がいつのトーナメントなのか調べてやろう。

WikipediaやYouTubeなどでいろいろ検索すると、確かにマッザはボーンとある大会の決勝を戦っていた。1997年のブレントウッド・クラシックでマッザはボーンを下して7回目の優勝をしている。劇中の映像はその時のものだ。しかしー。9フレ終わって同スコアというのは事実と違う。実際は9フレの時点でマッザがプラス59ピンと勝利を確定していた。YouTubeでその時の映像をスクリーンショットしたのが↓だ。
マッザが2本残したのは実際は2フレでドラマではその時の映像を使っていた。しかし中継音声は全く別のことをしゃべっていたのだ。劇中の内容に合わせて家族のことを語らせたかったのかもしれない。このドラマでは「家族」も一つのテーマだからか。ちなみにマッザは1993年のトーナメントで実際に奥さんと子どもが会場にいて応援している様子も中継されていたことがある。↓この子がジョセフなんだろうね。
そして数年前にボウリング系YouTuberのサイトでインタビューに答えているのもあった↓。
いや〜、当時から頭頂部は薄くなっていたが今ではすっかり・・。もう30年以上前だもんね。1990年代に活躍していたレジェンドボウラーたち、30勝以上タイトル獲得したノーム・デューク、ピート・ウェーバー、ウォルター・レイ・ウィリアムズJr.などはレギュラートーナメントは引退したし、その頃は若手だったクリス・バーンズも今年引退を表明した。彼らの活躍を見てボウリングにハマッていった私もアマチュアなのにほぼ引退状態だ。30年も経てば一つの世代が完全に入れ替わるって本当だなぁ。

ドラマの筋とは全く関係ないことながら、そんなことでしみじみと感じ入ってしまった。

2026年9月3日木曜日

ハナビ、丸3年

昨日書きそびれたが、9月2日はハナビを保護してちょうど3年の記念日だった。ただ、我が家に居着いたのはそれより約5ヶ月前の2023年4月9日だった(「ハナビちゃん登場」https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2023/04/blog-post_9.html)。この時はまだ、うちに来てエサをねだる野良ネコのうちの一匹だくらいに思っていた。この団地の野良ネコでうちに来るのは、たまにエサもらいに来るか、その時の1回きりしか顔を見せないかのどちらかだった。名付けはその時の日記にも書いたとおり、鼻に黒いブチがあったので「ハナ」と呼ぼうとしたが、知っているイヌに同名がいたので、さらに「鼻(ビ)」を付けて「ハナビ」と呼ぶことにしたのだった。それが毎日来るどころか、ロッジに寝泊まりするようになり朝夕2回の食事ももらうのが当然とばかり窓を叩いて催促するようになった。それが5ヶ月も続けばもう家の中でちゃんと飼うしかないと私たちは腹をくくったのだった。↓は近くの動物病院で処置を受けるハナビ。この写真ではおとなしいが、実はかなり暴れて引っ掻き噛みついたようで「次回以降は麻酔を必ずさせてもらいます」と釘をさされたのだった(‾□‾;)。

その年の9月の日記はハナビやネコのネタがやたら多かった。9月4日「ハナビ3日目」、9月12日「なじんでよ、ハナビ」、9月19日「ネコの複数問題」、9月25日「ハナビ無双」、9月26日「ネコ2匹、私1人」、9月27日「ネコがしぶとく生きていくためには」と7つも日記ネタになった。この頃のハナビは我が強く、また縄張り意識もあってゲンちゃんとよく衝突していた。「ハナビ無双」や「ネコ2匹、私1人」を読むとそれがよく分かる。後者ではゲンちゃんとのバトルが動画で見られ、久しぶりに見て面白かったわ→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2023/09/21.html。↓は動物病院受診後に初めてこてる家の玄関に来た時のハナビ。なんだここは?って表情だ↓。まだ首輪はない。
同じ日、すぐにハナビには黄色い首輪を付けた。それが3年経ってもずーっと同じ首輪を付けているんだ。ハナビはそれを嫌がらない。反対にゲンちゃんはピンクの首輪なんだが、首になかあるのがイヤで、なにかにつけて外そうとするので首輪がへたってしまうんだ。それで半年に1回は新品と交換している。とうとうピンクのが店になくて今は赤の首輪になってしまった。ハナビ用の黄色の首輪はその時にもう1個買っていたが、カールは「いまだに交換する必要ないくらい」と笑っている。初めて首輪を付けてもらう瞬間↓。
ハナビは人に勝手に触られるのがイヤで、迂闊に手を出そうもなら必ず攻撃してきた。最初に私に慣れてきて、すこーしずつカールにも慣れてきて、なでなでするのはOKになった(時々家にやって来るチッチにはまだ懐かないけどー)。特に私には歯磨き、ひげ剃り、入浴をしようとすると必ず寄ってくるほどで、そばに水道があれば水飲みをしたがる。最近はカールが料理をしようとすると「いつも寄ってくるのよ〜」なんだそうだ。↓は台所で水を飲むハナビ。
ゲンちゃんとのバトルも最近はほとんどなく、それどころか同じ時間帯ではおなじような行動を取ることが多い。↓は昨日の夕方、ともに同じ方向を向いてくつろぐ2匹。
この1時間後にはハナビは私のチェアに、ゲンちゃんはカールのチェアに乗っかってお休みしていた。ともかくも「こてる家の中にも3年」。だんだん家ネコ化して、懐いてきているハナビであった。

2026年9月2日水曜日

確かにすごい「ブレイキング・バッド」

8月29日に取り上げたアメリカのドラマ「ブレイキング・バッド」、これをこのところずっと見続けている。シーズン2(13話)、シーズン3(13話)は見終わり、今日からシーズン4(13話)に突入した。シーズン1を見終わった時点で「見るのは止めようかな」とチラッと思ったが、YouTubeで「ホイチョイ的映画生活〜この一本〜」を配信している映画監督の馬場康夫さんと雑誌編集者の西田善太さんが2年ほど前にこのドラマを取り上げていて、「これは私の人生最高のドラマです」と力説する西田善太さんの熱弁にうーむと唸り、↓にもあるように「ブレイキング・バッド」はシーズン1さえ見終えれば大丈夫とあって、ちょうどその時点にいた私は「ならばシーズン2以降も見ようじゃない」となったのだ。
で、このドラマ、制作者は最初からシーズン5までで終えると決めていて練り上げていったそうだ。それで、ヒットしたからと、だらだらとエピソードを重ね後半は似たような展開で面白みがなくなるパターンが一切なく、そればかりかシーズンを追うごとに面白くなるって評価が多かった。実際、シーズン3まで見て、メインキャラやサブキャラの葛藤や成功、悩みなどが飽きさせないように上手に描かれ、えっ?!と思うような回も多々あり数日でシーズン4まで来てしまった。犯罪物なので人が死ぬシーンも多々ある。特にシーズン2の最終13話はシーズン冒頭に出て来たプールに漂う片眼の取れたぬいぐるみの意味が判明するのだが、いやまさかそんなエピソードを持って来るのかと意表を突かれた。

サブキャラでは巨大麻薬組織のボス、ガス・フリングが実にいい。表だってはチキンフードチェーン店の社長で身なりはきちんとした褐色系のシャツで地域の名士で通っている。しかし裏ビジネスでは非情なタイプで頭の回転も早い。主人公の中年男性はその組織の一員として麻薬製造に関わることになるが、若手相棒とのコンビでどうにか上手く立ち回ろうと奮戦する。主人公が窮地に立った時にそれを解決するアイデアにも唸らされる。また主人公の妻やその妹もなにかとストーリーに関わってくる。チャラいが腕利きの弁護士もいて主人公たちを手助けしたりと、それぞれのキャラがみんな立っているんだ。メキシコとの麻薬カルテルとの関わりも緊張感ある演出が多い。またアメリカ麻薬取締局のDEAには凄腕捜査官がいて実は主人公の義弟にあたるが、主人公の裏家業には今のところ気づいていない。が、しかしーってとこだ。

実はこの日記を書く前にシーズン4の最終話に来ていて、これがすごかった。主人公が敵2人の心理を上手く利用し、結局2人とも同時にやっつけてしまう。見ている方は驚き、カタルシスの両方が感じられる。シーズン5にも神回と言われる放送回がいくつもあるそうだから、もうここまで来るとこのドラマ確かに止められませ〜ん。メジャーリーグは大谷の調子が最悪で最近は面白くない試合が多く面白くない。そのせいもあってこのドラマを集中して見ている。「生涯最高」までは行くか分からないけれど、エミー賞も獲ったこの作品、韓ドラや日本のドラマにはないアメリカドラマの神髄を見せてもらっているとは言える。この日記どうにか書き終えたら早速シーズン5(全16話)を見始めようゾ。

2026年9月1日火曜日

古くはない、風情がある

9月になって新しく入職してきた職員が院長室に挨拶に来た。職種も年齢もバラバラだったが全員女性だった。青雲会では4月からネームは名字だけで名前が記されない。

名前がないとどうも覚えにくい。私は写真を撮る時に必ず名前を聞いてメモに取っておく。

右の看護師さんは「サオリです」というので漢字まで尋ねた。「沙緒梨」だという。ふーむ、これはいかにも今風なネーミングだ。次のアロハの女性は「マサコです」というので、私は見た目からして「ふふ、昭和の風情を感じますねぇ」と言い「マサコはマサコでもどの漢字?」と聞くと「森昌子の昌子です」で一発で理解した。真ん中の女性は医師事務作業補助者で名前を聞く前に見た目で平成生まれだろうと思った。「アサミでアは亜細亜の亜でサは氵に少ない、ミは美しいの亜沙美です」とやはりいかにも平成風だ。あとの二人はどう見ても昭和生まれにしか見えない。名前は「久乃」さんと「田鶴子」で間違いなかった。

その後、内視鏡室で仕事中に医師事務作業補助者の主任を務めている山の神さんが新人の亜沙美さんを連れて挨拶に来た。私は朝一番ですでに会っているので「ああよろしく、確か名前は・・サオリさんかアサミさんか・・」「亜沙美です」「そうそう。だったね。名前が昭和風情ではなくて平成風だったんだ」と言うと、山の神さんがチラリと視線を寄こし「センセイ、じゃー私は古いってことですかぁ」と言ってきた。これには慌てて否定した。

「いやいや、私は『古い』なんて一言も言っていないよ。院長室でも昭和の香りがするとか昭和の風情があるって言ったんだよ。古いなんて言ってない言ってない( ・_・;)」

山の神さんの名前は「マキコ」で最後は「子」の字が付く。昭和時代の女性は「〇子」や「〇〇子」が当たり前でクラスの半数いや3分の2に「子」が付いていたものだ。平成に入っても10人に1人くらいは「子」が付いていたような気がしたが、どんどん廃れて今ではほとんど見なくなった。令和の感覚からすると「子」を付けるとまだちょっと古くさいのだろう。

この前、親戚のスチョルDrと話をした時に、明治生まれの私の祖母やその姉妹の名付けが「エイ」「ツエ」「トエ」とカタカナ2文字だったと少し話題になった。日常ではそれぞれ「お」を付けて「オエイ」「オツエ」「オトエ」ばあさんと呼んでいた。オエイ祖母さんの子どもは女性が4人がいて、上の二人は大正生まれで「マサエ」「トシ」その次が唯一男の父デンコーで次が昭和生まれだが「ネキ」、最後だけが「文子」と子が付いた。確か昭和10年か11年生まれだ。その頃になると「子」を付けるのが一般的になっていたのだろう。故ギボヒサコも昭和11年の早生まれで「久子」だった。昭和9年生まれの「美智子」妃など相当に新しい雰囲気を持つネーミングだったんじゃないかな。

カタカナ2文字だと明治大正から昭和初期、「子」が付くと昭和まっただ中のイメージがまだある。しかしもう少し時代が経てばカタカナも「子」も新鮮な感じがしてまた付けられるかも。平成に入った頃、フジTVの女性アナウンサーで「近藤サト」という新人が出てきた時に、意外に新鮮な響きがあって私は驚いたものだった。サトさんは昭和43年生まれの現在58歳。今では白髪ではあるが名前ともぴったり似合ってイイ感じだ。

カタカナも「子」も決して古いわけではないんだよ〜。