2024年11月20日水曜日

火野正平とこてる日記

ネットで「火野正平が11月14日に死去していた」との報道があった。腰椎圧迫骨折でNHKの「こころ旅」もこの春の途中から休んでいて、秋も復活出来ずに1週間交代で代役の俳優女優らが自転車の旅をやっていた。所属事務所が文書で訃報を発表し「4月から持病の腰痛の治療に励んでおりましたが、夏の腰部骨折を機に体調を崩し…」と経緯を記した。本人は最期まで仕事復帰を願っていたがかなわず、自宅で家族に見守られ、穏やかな最期だったという。↓は正平さんの祭壇の遺影。
実はこの家族というのは妻は正式に結婚した相手ではなく一般人で事実婚で娘二人をもうけている。正式な妻とは相手が決して同意せず離婚出来ずにずっと女優や歌手と浮名を流していた。骨折で一気に体調が衰えるのはよくあるが、本当の死因はなんだったんだろう。癌か心筋梗塞、そのあたりかな。タバコが好きだったもんねー。こころ旅でもタバコを吸うシーンがあった。こてる日記でもたびたび日記ネタになってくれ(19回)て、実は最後の放送になったのが、今年4月19日で鹿児島の湧水町栗野の「丸池湧水」だった。
こてる日記の「鹿児島「こころ旅」&「72時間」」をぜひご覧あれ。

プレイボーイぶりネタでは2022年11月29日の「火野正平はなぜニヤけたのか」→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2022/11/blog-post_29.htmlなんかどうだろう。それと関連した2018年10月24日の「「美しきチャレンジャー」の楽しみ方」→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2018/10/blog-post_24.htmlで某女優のことが書かれている。また2018年5月4日の「がんばれ、ショーヘイ!」→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2018/05/blog-post_4.htmlでは、当時メジャーリーグに移籍したばかりの大谷翔平とからめて「ショーヘイとはオレのことかと火野正平」と言いたくなるようなつぶやきが面白かった。

なお、この日の日記で私は「・・・下り坂になると「人生、下り坂最高!」と名言を吐く。女好きキャラも返って地域住民とのからみと相性よく、彼だからこそ安心して見ていられる番組といってもいい。ただ、もう68才、チェーンスモーカーであることが垣間見え、今後、癌や心疾患で倒れないことを祈るばかりだ」と書いていた。70歳になったころ、正平さんは「前から70歳になったらNHKに言おうと思っていたんだ。70歳って古希っていうんだろ。NHKは70の正平をコキ使うって」とスタッフを、そして視聴者を笑わせていた。

まだまだ私たちを楽しませて欲しかった正平さん、しかし身体が限界だったのもしれない。ご冥福をお祈りします。

2024年11月19日火曜日

プーさん病院地域医療連携会

夜は城山ホテル鹿児島でプーさん病院の地域医療連携会に出席した。無論スーツをピシリと着てのことだ。

出席表を眺めると、全出席者140名以上のうちゲストの約100名以上がドクターだった。テーブルの左隣には元第二内科講師のビューティフルガーデンDr、対面には元青雲会病院常勤だったブックリバーDrもいた。左隣はプーさんの消化器内科のマツリゴトDrで私は「学生の時のポリクリでお父さんのマツリゴトシニアDrに胃透視の講義を受けたのが印象に残っていますよ」というエピソードを話した。お父さん先生が亡くなってもう30年以上は経っているだろうか。今日の病院紹介ではその名を冠した消化器病研究所が今も残っているということだ。

プーさん病院は今年で70周年になるという。ベッド数も338床もあり青雲会病院の3倍弱もある。1年前から院長を拝命したヨッシン先生は私の大学入学同期で、急性期医療と高度先進医療の提供と地域支援医療病院として頑張っていくという決意をミニ講演で述べていた。昨年は救急車受入数を2千台越えを目指すとして毎日ホームページにその数を更新して年末に達成出来たとか、今年から来年の休みが下手すると9連休にもなるため、12月28日と1月4日の土曜は平日と同様の終日診療を行うつもりだと積極的な姿勢がよく出ていた。

参加者ドクターの名簿を見てバスケット部先輩のええ楽Drや卒業同期のアンダーブックDr、元青雲会病院外科のカホDr、同じく非常勤だったナマテツDrなど久しぶりに会って互いの現況を語り合った。その中でわざわざ私のところに来てくれたのが整形外科出身で30年以上も前に霧島労災病院(現在は廃院)でいっしょだったサメコーDrだった。彼は以前プーさん病院に勤務していた。ただ様子を見て驚いた。右腕を曲げていて動きがぎこちない。「脳出血をしたんですよ。4年前です。でもクリニックの診察はまだ頑張っています」「こてる日記も時々見ていますよ」とまだまだくたばってたまるかと気持ちは折れていなかった。その意気やよしだが、さすがにボウリングは無理だろうな。以前ボウリング場で会って「マイボール作ったらいいよ」と勧めたら後にちゃんと作ってマイボールを投げていた。あ、彼はサウスポーだった。うーんでも無理はしないでいい。ボウリング出来なくても人生やることはいくらでもあるさー。
2内科後輩女医の雉子マリコDrに声をかけられ、内心「はて、誰だったかな?」と思いつつも「おお、久しぶり〜」と応答した。幸か不幸か「今は〇〇ですけど△△ですー」と結婚して姓が変わったと言うので「ああ、だから分からなかったよ」とヒヤヒヤながら話を合わせられた( 本当に忘れていて帰宅後に名簿でようやく思い出した)。他、開設した在宅クリニック名を見て相手がナマテツDrだと思って「在宅クリニックをやっているんだって」と話しかけると、人違いでアンダーブックDrだった。「あ、しまった」と思ったが、アンダーブックDrは「そうなんよ。もう16年になる」と素直に応じてくれた。「アンダーブック医院」という名前だったけれど実質在宅クリニックをやっていたんだ。ふう(汗)。

まあ、懇親会ではあるけれど同窓会の趣もあり、名前や顔を思い出せないなどの勘違いは大いにありうる。実は加治木温泉病院の会でも某女医さんに別の女医さんと専門科を勘違いして会話したりして、後から冷や汗かいた。それでも懇親会はなかなかに楽しい。コロナも一段落してこの手の会が増えていいことだ。今年はこれでこの手の会も終わりだ。また来年もお誘いがあったら出席しよう。みなさんよろしく!

2024年11月18日月曜日

血まみれな月曜

当直の深夜、救急車は来なかったが病棟からの連絡はわりにあった。それが私の受け持ち患者のうち大腸憩室から1人、十二指腸潰瘍から1人確かに出血を来しているという所見やデータがあり、明日は内視鏡を追加しなきゃなと思いつつ寝込んでいた。午前7時半前に救急車で来た高齢御婦人は当初は右の胸痛という訴えだったが、救急外来で安静にしていたら頭痛嘔吐納手があった。頭部CTを撮るとなんと脳出血が判明。すぐに脳外科に連絡して入院となった。昼に内視鏡をやっていたら、さらに回復期病棟の患者が黒色便が出て貧血を起こしているという。うわ、この人は1週間ほど前に十二指腸潰瘍出血があった人だ。再出血か。しかし検査は明日することにした。今日の午後は早帰りなんだ。

なんとも血まみれな月曜なこと。

結局、早帰りといっても病院を出られたのは15時半を過ぎていた。帰宅してもカールは不在で、例のREGZA65型を宅配の店に運びに行っているのだった。一人では当然無理でヨカトモ従兄やヒトミンチョ従妹に手伝ってもらっていた。ありがたい。

私は75型REGZAを付けてタイムシフトで過去番組を流しつつウトウト。血なまぐさい月曜から少しでも身体をきれいにしていく気分でしたよ・・。

2024年11月17日日曜日

REGZA75Z870Nを設置したぁ

さてやっと届いたREGZAの75Z870N 、これのセッティングをしないとー。しかしまずはREGZA65Z740XSを片付けるのが先だ。実はこのTVはまだ十分に使えるので沖縄の別宅に送ってそこに据えるつもり。沖縄の古い42型REGZA(2008年製)が壊れたので玉突きのように鹿児島のお古を送って利用するわけだ。

保存してあったREGZA65Z740XSの専用梱包段ボールを持って来て床に置いたら、早速ゲンちゃんとハナビがやって来たよ。ネコにとって段ボールの中って興味津々でしかない。まずはゲンちゃんからだ。

ゲンちゃんが出たら今度はハナビが侵入する。
それをカールとゲンちゃんがのぞき見する。
しばらくすると、警戒心を解いたゲンちゃんにハナビが例のごとく背後を狙っている様子が・・。
しかし結局は何事もなく終わった。
65型の台座を外し、付随しているハードディスクを外し配送可能の状態にTVを段ボールに入れた。ここまでで結構疲れ、汗もかいた。しかし、まだ75型を取りだしセッティングする作業が残っている。この時にはネコ2匹は居間から追いやった。ネコのを手を借りたいどころかお邪魔でしかないのでね。↓台座を取り付ける様子。
座った後、立ち上がると少しクラクラする。汗かいて脱水気味から低血圧になっているんだろう。2時間程度でほぼ据え付け作業を終わり、昼食を摂ったがまだハードディスクの取り付けが終わっていない。↓NHKBSで剱岳や黒部渓谷の錦秋風景をやっていた。これまでのREGZAより色合いが鮮やかだ。
タイムシフトマシン用のハードディスク設置が終わり、しばらくして鹿児島県高校サッカーの決勝戦をタイムシフトで試合開始から見てみた。全く問題ない。今回は8テラの容量にしたので1週間以上は持つと考えている。通常録画用のハードディスクは沖縄のTVのやつをカールに持って来てもらう予定。何事もムダがないようにしなくちゃネ。

さて、夕方から病院当直が組まれていた。その前におニューのTVでAmazon Primeを開き、今年1番面白かった韓ドラ「私の夫と結婚して」の第1話を見始めてみた。画像チェックとせっかくだからカールにも見てもらおうとの魂胆も。ネット画質も明らかに4年ほど前の機種REGZA65Z740XSより綺麗だ。言われなければネットの番組だとは気づかない。1話が終わったところで「そろそろ病院に行かないと間に合わない」と私は出かけた。

後で、カールに聞いたら「テル君たらもう、おかげで(いつも見ているTVドラマの)『坂の上の雲』は見なかったし、結局7話まで見て他のことが何も出来なかった」とドハマリしたんだそうだ。だろーね。タイムスリップした主人公が悪人たちにやり返す、まるでサイダーのようにスカッとするドラマだって世界的に人気なったもんね。↓掃除機も片付けないでゲンちゃんといっしょに「私の夫と結婚して」を見ているカール。

75型はそら大きいがもともと居間が大きめなので違和感は全くない。65型の時の方が42型からのアップだったので大きくなったと感じた。いつも言っているがTVの大きさはすぐに慣れる。買ったばかりだが、かなりお気に入りのREGZA75Z870Nだわ〜。

2024年11月16日土曜日

勤か休か待か

今日の土曜は仕事はなく休みだった。で、朝はすぐには起きず、布団の中でうだうだとしていたら・・病院の外来のホットウォーターNsから電話があった。

「先生、今、家ですか」「ああ、そうだけど(まだ布団の中とは言えない)」「今日は外来担当日ですよ。しかも救急ピッチ当番も」「ええーっ、休みだと思っていた。誰か(外来診察に)来ていないか」「いいえ。内科を診る人誰もいませんよ」「ちょ、ちょっと待って。確か誰かと診察は交代した気がするんだが」「うんもう、誰もいないから早く来て下さいよ〜」

そんな言われてもー。時刻はすでに午前9時半にもなろうかだ。早く当直表を確かめなくては。その前にヒゲを剃って、着替えも持ってから下に降りた。まず手帳を見ると今日は確かに休みだった。そして「勤」の字を消していた。ああ、最初は勤務だったんだ。当直表を確認する。ほう、合い言葉Drと交代していた。そうだった。合い言葉Drが2週間後の土曜勤務が都合悪く、私に「今日の土曜と交代してくれ」と先月頼まれたのだった。ただ、その変更を当直表に反映させていなかったのは私のミスだ。

すぐに病院外来に電話をし、経緯を話した。合い言葉Drは泌尿器科なので内科外来にDrはいなくて当然だった。ふぅ〜、あせったぜ。

今日はこの前注文していた液晶TV、REGZA75Z870Nが届く予定だった。ネットで最安値の販売所から注文し30万円台だった。今回は画面サイズアップをしたくて前回65型を75型にすると決めていた。単にそのサイズなら今時20万円を切る製品もあるが、私の場合24時間録画可能のタイムシフトマシン付きでないと絶対にダメだ。となると今年新発売の中からはこれとさらにその上のREGZA75Z970Nしかない。75Z970Nは40万円以上もする。私は最上級クラスにこだわるタイプではない。また前回買った65型のREGZA65Z740XSは型落ちでその時点で全国最安値(19万円台)をゲットしたものだった。75型の型落ちも・・と調べると75Z870Mは29万円前後だった。型落ちにしては最新型と値段の差が1、2万円ほどしかない。ならば最新型だ。そうだその前の検討課題として画質がいいといわれる有機ELタイプはどうなのか?有機ELにすると同じサイズでも液晶に比べ10万円くらい値段が上がる。最近の液晶はmini LEDとかいうのを使って画質も向上してるそうだし、だが・・REGZAの有機ELには75型がなかった。これは決定的で論理的にREGZA75Z870Nにならざるを得なかったのである。
しかしなかなか来ない。発送履歴もネットで確認出来ていて、一昨日の夜20時台には鹿児島の発送所に到着していた。昨日来なかったとなれば今日の日中には届くはず。遅いなあ。15時半からは実は東洋Drところで久しぶりの麻雀の約束もあるというのに・・。で、ふとスマホを確認すると・・げ、数回に渡って配送車からと思われる電話記録が残っていた。あわてて電話しなおすと「今近くにいる、あと5分くらい」というので待つことにした。15時ちょうどくらいで麻雀にぎりぎり間に合う時間だった。で、届いたのが15時4分↓。重さ60kg。一人では絶対に持ち運べない。
この後、製品を開けて見ることなく私は麻雀へと急がざるを得なかったのであった。

2024年11月15日金曜日

入れ歯よい

今日は鹿児島で消化器系の地方学会が開かれていた。私は今回は参加しなかったが、本日内視鏡担当の非常勤オルドリバDrがスライド発表があるとのことで休みだった。そこで私が午前10時過ぎから外来業務を休止して内視鏡の手伝いに行った。多くは人間ドックの胃カメラで粛々と進んで行くも、12時過ぎに外科Drからちょっと面倒な依頼が来た。

「70代男性で入れ歯を呑み込んだんだそうです。レントゲンとCTを今撮っています。内視鏡での摘出が可能でしょうか」

部分入れ歯なら何回か取ったことはあるが・・レントゲンを見ると一応部分入れ歯だ。喉の奥から食道にかけて引っかかっているようだ。うーん。

こういう尖った部分のある異物は摘出する際に消化管の粘膜を裂傷させる危険性がある。食道には3ヶ所ほど狭くなる部位があり、喉と食道の境界部は特にそうだ。外科のDrがCTも指示していて少し待機の時間があり、その間文献など調べてみると、結構な確率で外科手術に回されて摘出というケースが多かった。しかしまあ見てみないことには始まらない。

この患者さんは要介護4で認知もあるとのことだった。施設の職員が朝、入れ歯がないことに気づくも本人は「呑み込んでいない」と返事したそうだ。しかしどこにも入れ歯は見つからないので病院に連れてきた。結果は見事に呑み込んでいた。で、家族に「内視鏡で取れなければ手術も・・」と念のため釘を刺しておいた。あ・・ちょっと例えが悪い。念を押しておいた。摘出するために鉗子も把持鉗子と使うかもしくはトラペゾイド鉗子でからめて取るか、はてはゴム手袋をうまく使って覆うようにして取る方法は・・なんてことも内視鏡室スタッフは話していた。いろんな思いが交錯する中、内視鏡先端にフードを付けて挿入が開始となった。

「あれ?」

意外にも口腔から喉のちょっと奥すぐに入れ歯は見えた。これは把持鉗子でつかんで引けば簡単に取れそう。

なんと、内視鏡入れてから摘出完了までたったの1分半。まずはやってみなはれ。案ずるより産むが易しって。そう思って「入れ歯」よいってことだったわっ!

2024年11月14日木曜日

佐々木朗希を非難する前に

今、日米ともプロ野球はオフシーズンだが、いわゆるストーブリーグネタも多くなかなか飽きさせない。

特に千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希投手のメジャーリーグ挑戦をロッテが容認したというニュースには驚きと喜びが同時に湧き上がった。というのも、噂はずっとあったものの25歳にならなければいわゆるポスティングシステムでメジャー挑戦するのは理(利)に合わないと思っていたから。マスコミ等でも報じられているとおり、あと2年待てば何十億という利益が舞い込むし、それは佐々木本人だけでなくロッテにとっても同様だったはずだ。山本由伸がそれで昨年契約金約462億円、ロッテには譲渡金約72億円という巨額のお金が動いたのだ。それが佐々木の場合はせいぜい契約金10億円クラス、ロッテにも2億円程度というから話がよく分からない。まあ、佐々木にしてみれば1年でも早くメジャーに行きたいというのはあったのだろう。でもロッテは・・。
何か裏がありそうだが、私はそれより佐々木がメジャーに行くのが確定したことがうれしい。ドジャースが最有力ということらしいから大谷らと一致協力してワールドシリーズを連覇して欲しいし、ドジャース入りがならなくてもメジャーで活躍する姿を見てみたいのだ。佐々木の身勝手なメジャー指向はプロ野球にとって損失だぁ、あいつはワガママだとか反発している日本の野球ファンが多いとは聞くが、私は何も思わない。だってメジャーの方が面白いし見ていて楽しいもん。かつて30年以上前はそれほど日本とは市場規模が違わなかったメジャーが10倍もの市場に拡大していったのに日本はそんな努力をしてこなかった(出来なかった)。その報いでしょ。

なぜメジャーリーグ(MLB)と日本プロ野球(NPB)とはこんなに差が付いたのか。それは歴史的なものと構造的なものに理由があるようだ。メジャーは収入源として一番大きいテレビ放映権をMLBが一括管理し市場価値を高め収入の分配を実現している。ジャイアンツ人気で一極集中(パ・リーグはそうでもないが)の日本との差は開く一方だ。ただ観客動員については日本も負けておらず可能性はある。私は球団再編成(とくにエクスパンション、球団増設)が必要だと思う。メジャーの10月のポストシーズンの盛り上がりを思えば、12プラス4の16球団4地区にするとか、12プラス3の15球団3地区にして優勝チームとそれに続くワイルドカードチームの5回戦制、7回戦制にするとずっと盛り上がるだろう。CSのシステムも今一だよな。今年の優勝はジャイアンツとホークス、でも日本一はベイスターズとなんだか変だ。

佐々木を非難する前に、じゃーなんで有力選手がなぜメジャーを目指すのかと我が身を振り返ることが大事だろう。

(メジャーリーグとプロ野球と差の考察がすぐれたサイトあり。ぜひご覧を。ANA総合研究所の講師である廣岡信也氏↓がこの問題をか詳しくかつ分かりやすく解説し問題提起している。
https://www.anahd.co.jp/group/ari/human/report/pdf/report-2024-08-01.pdf

2024年11月13日水曜日

国分生協病院懇親会

院長になって以前と違うことの一つが外部との会合への参加が増えたことだ。今夜は国分生協病院が主催する「第3回地域医療懇親会」に出かけた。この会への出席は初めてで、先月3日の加治木温泉病院主催の会と同じホテル、同じ会場だった。はい、今回はちゃんとスーツを着て行きました。あの時は全くの普段着で行ってしまい恥ずかしかったんでー。

こてる日記では個人情報などは勝手に別名、変名にして書いていて、地域の病院、医院名もそうしてきた。加治木温泉病院は「カジキマグロ病院」、国分生協病院は「国分説教病院」といった具合だ(青雲会病院は当初「盛運病院」としていたがこれはすぐに正式名に戻した)。ホテル京セラも「ホテル京フラ」とか「ホテル今日せな」なんて書いた時期があったが、公的な施設名や今回のような日記ネタの時に別名では書きづらいので変えずに書くことにする。しかしケースバイケースで、例えば今回出席していた大学同級生の新チームDrが副院長の七五調病院は個人特定につながるかも知れないので変名で書く。↓左が新チームDr。
この会に出る前は青雲会病院から私一人だけが出席すると聞いていて、知り合いもほとんどいないのかなとちょっぴり気が重かった。しかし私も姶良霧島地区に24年も勤務していればそんなことはなかった。医師会の会合で見知っている先生方や青雲に非常勤で来てもらっている阿辻維新Dr、かつて青雲にいて国分で開業したトシマロDr、鹿大第二内科後輩では、クリニック院長のカロクラDr、新チームDrと同じく七五調病院副院長のハセショーDrもいてさびしいなんてことはなかった。それこそ懇親会で顔の見えるお付き合いが出来たわ。↓はカロクラDrで「こてる日記を読むのは毎朝の日課です」といい「今日はちゃんと背広で(来られて)」と彼以外は誰も気づかなかったマイシークレットを指摘していたよ( ・_・;)。
講演では国分生協病院が訪問診療に力を入れていることや県内の医療機関へのアンケートを通じてコロナ後の診療報酬改定が実質マイナスで医療界には危機感がある指摘などとてもためになる内容であった。
この秋はこの手の懇親会出席が多く、来週はプーさん病院主催のもある。7月予定だったのがコロナの病棟クラスター発生で延期になっていた。また日記ネタになろうが、プーさん病院、ちゃんと正式名で書くのかはまだ決めていない。知り合いの先生が国分生協病院よりは多いのでどうかなぁ。

2024年11月12日火曜日

「ガメラ対ギャオス」

YouTubeをテキトーに見ていたら、【本編】『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』<2週間限定公開>と映画まるごとタダで公開という一編があった。「ガメラ対ギャオス」だよ。懐かしい。子どもの頃、ゴジラとガメラは怪獣映画の2大巨頭で東宝はゴジラ、大映はガメラと子どもながらに映画会社でそれぞれメインの怪獣キャラがあるのは知っていた。

時は昭和41年(1966年)、TVではウルトラQの後にウルトラマンが放映され、怪獣ブームが到来していた。昨日のラブカメ先生と私が同じ昭和世代でもこの怪獣ブームを経験しているかしていないかで全く違う世代と言ってもいいかもしれない。私はその時小学1年、当然真っ黒に怪獣たちに染まっていた。小学1年の時の夏休みの映画では東宝では「サンダ対ガイラ」、ゴールデンウィークには大映では「ガメラ対バルゴン」があったが私はどちら見せてもらえなかった。親が付き添わなくてはいけないというルールがあってなかなか難しかったのだ。TVでウルトラマンを見たり、雑誌「小学1年生」の付録の怪獣図鑑を眺めて過ごすしかなかった。

しかし、冬休み、東宝のゴジラシリーズの「南海の大決闘:ゴジラ、エビラ、モスラ」は見ることが出来て大いにワクワクしたものだった。ゴジラ映画で初めて記憶しているのがこの映画だった(それ以前の「三大怪獣地球最大の決戦:ゴジラ、キングギドラ、モスラ」は見た気がするがはっきりとは覚えていない)。そして翌年の春3月、大映の「ガメラ対ギャオス」でガメラシリーズを初めて見た。それ以降のシリーズもほぼ全部見たし、後にビデオで「ガメラ対バルゴン」や初代「ガメラ」なども見たが、このギャオスとの対決が一番面白かった。それを今回さらさらとではあるが、また見直してみた。→https://www.youtube.com/watch?v=fBiYHWIpZwk

いや〜、場面場面の精細さこそ現代のCGを駆使した画面とは比較にならないが限られた予算でなかなかに面白い映像を見せてくれていた。ギャオスの超音波光線(そんなもんが武器になるはずもないと大人の今は思うが)で飛んでいる自衛隊のヘリが真っ二つに切られて乗客が慌てふためいておちるシーンや、新聞記者が乗っている車がこれまたギャオスの発する光線で真っ二つになるシーンは怖さよりも可笑しさと気っ風の良ささえ感じられた。ギャオスは造形的にもなかなかよく出来ていて、私はノートの端にギャオスの絵をよく描いていたものだ。
この映画では高速道路建設に伴う利権がらみといった人間ドラマもあったが、そんなのより暴れ回るギャオスの登場シーンがずっと面白い。名古屋では新幹線の屋根を切り裂き、逃げ惑う乗客数人を取って食べしまうシーンもあり、そのあたりはゴジラシリーズとは違うテイストで息を呑む。山や街や海で暴れ回り、ガメラと精一杯戦って最後は敗れてしまうが、この映画、ギャオスが主人公なんだと思った。だから敵役ながら強い印象を残し、平成に入ってガメラ映画が復活した時にその第1作にギャオスはまた登場した。バルゴンやギロンも平成シリーズの第2作に敵役で再登場が検討されたらしいが今一だったようで結局新規の怪獣になった。まあそれくらいギャオスってのはインパクトがあり面白さで評判が良かった、ゴジラシリーズで言えばキングキドラがそれにあたるな。

60年近くも前の映画だからといってもついつい見てしまったのはこの映画に力があったからで、画質もデジタル技術でリファインされて見やすく大人が見てもそこそこ面白いと推しておきますわ。そうそう、後1週間くらいで見られなくなるから興味持った人は↑のサイトをクリックしよう。

2024年11月11日月曜日

昭和の子ども

最近、青雲会病院の年報冊子が届いた。メインは各部署の実績などが記されている。私も消化器内科部門を書いた。それとは別に、可愛いんだ理事長とラブカメ理事の一文が冒頭に載っていて、特にラブカメ先生の人生80年を振り返っての内容「傘寿を迎え、わが身を振り返る」が面白かった。

先生は昭和19年(1944年)生まれで鹿児島市は天保山の近くで生まれたという。そしてすぐに母親の実家の大口に疎開したそうだ。なんと、その時期カールの母親ギボヒサコも沖縄から大口に縁故疎開していた。その頃ヒサコは小学4年で古い写真1枚が残っている。↓の写真はおそらく昭和21年3月の頃の小4のクラス写真だろう。みんなおかっぱ頭でどの子がギボヒサコか不明である。

戦後2年くらいまでは母と娘3人息子1人は大口にいて、沖縄に帰ったのが昭和23年初めくらいで、昭和17年生まれのヨーコバーバなどその時は鹿児島弁しかしゃべれなかったそうだ。ただし、生まれ育った那覇市は規制もあり、すぐには帰れず、当時沖縄の政治、人流の中心だった石川市(現うるま市)に移った。それは沖縄に残っていた父親(カールの祖父)が勤めていた「うるま新報(現;琉球新報)」社が石川市にあったからで、昭和23年夏に那覇に移転したのを契機に一家も本来の那覇市に戻れたということのようだ。ヒサコの母のミネキヨさんは大口の写真屋の男性に「あなたの旦那さんは沖縄戦でどうせ亡くなっているはずだから私といっしょにならないか」なんて迫られたエピソードもあったとか。

ラブカメ先生の話に戻ると、記憶があるのが今も上荒田にあるルンビニ幼稚園の4、5歳頃からで、進駐軍のジープを追いかけてチューインガムを投げてもらって喜んでいたことを鮮明に覚えているという。なんと、戦後の子どもたちによくあるシーンではないか。ギブミーチューインガム!ギブミーチョコレート!きっと下の写真の中にラブカメ少年もいたのだろう。

荒田八幡の電車の通る場所は少し小高くなっておりそこは子どもらの格好の遊び場だったそうだ。そしてその次にこう書かれていた。

「また、自転車で飴を売りながら走る紙芝居に夢中であったことも鮮明に覚えている」

うわ〜、これも戦後の子どもたちの楽しみの一つであったとよく本や記事に書かれてある。そしてこの紙芝居というのが私が小学校低学年の昭和40年前半まででほぼ廃れたのだが、私はかろうじてその紙芝居屋さんを見たことがある。その頃はもう滅多にいなくて天文館公園で見かけたのは1、2回だけだった。おっちゃんがカチンカチンと拍子木を鳴らすと子どもたちが集まってくる。しかしすぐには紙芝居は始めない。5円か10円くらい払うと割り箸に水飴とパリパリした薄いお菓子をくるりと付けてくれる。つまりは水飴代を払えば紙芝居を見ることが出来るんだ。だから子どもたちが7、8人からそれ以上集まるとようやく紙芝居は始まる。だが、私は払った記憶がない。払わなくても遠くから紙芝居を見ることは出来たのである。

ラブカメ少年の小学生時代は昭和20年代だからテレビもない時代だ。最盛期には全国で5万人ほども紙芝居屋はいたらしい。少年が熱中したのもわかる。私の小学生時代は当然テレビやマンガ全盛で紙芝居屋は非常に珍しく、逆にそれで記憶に残っている。

ラブカメ少年は八幡(やはた)小学校に入った。なんと丸坊主の頭にDDTの粉を撒かれたんだと。いや、これも戦後に行われていたノミ、シラミ退治の一事業だった。発疹チフス予防に効果がありそれで命を救われた人も大勢いるだろう。ただ、この薬剤はその分解物(DDE、DDA)が、環境中で非常に分解されにくく、また食物連鎖を通じて生物濃縮されることがわかり、そのためわが国では1968年(昭和43年)に農薬(製造販売)会社が自主的に生産を中止し、1971年(昭和46年)には販売が禁止されている。ただDDTの発明者であるP.H.ミュラー博士(スイス)は、1948年にノーベル医学・生理学賞を受賞しているくらい有効な薬剤であった。

さらに入学すると方言をしゃべることに厳しく指導を受けたんだそうだ。「方言を話したら「方言を使った人」と書かれた札を首からぶら下げられた」という。沖縄でもあったいわゆる方言札だ。沖縄の場合、差別の問題もあってこれはよく問題になるが、鹿児島や東北でも同様の指導はあったのだ。実は昭和40年代の私の小学校(鹿児島市松原小学校)でも方言札こそなかったが、その週の努力目標に「方言を使わないようにしましょう」などといった指導がよくなされていた。今では方言は貴重な地方の文化として扱われているというがねぇ・・。

ラブカメ少年は、「この時代、学校での勉強に関する記憶は全然なく、道路での陣取り合戦や荒田八幡(あらたはちまん)神社で暗くなるまで遊びまわったことが懐かしい」と書いてある。私も天文館公園や松原神社で暗くなるまでよく遊んだ。その頃の遊びが今となっては財産にすらなっていると思える。あの頃は「引きこもり」って子どもはほどんどいなかった。塾に行くこともなく友だちと遊びまわることで、人との付き合い方や何もなくても工夫すれば楽しみなんていっぱいあることを自然と学んでいたのだ。勉強は後からでも出来る。しかし小学時代の遊びはその頃にやっていないと後からでは出来ないものなんだ。

私とラブカメ先生とは15歳の差があって、さすがに疎開や進駐軍、DDTは経験していないが、同じ昭和の子どもとしての共通項、共感を覚えたのだった。

2024年11月10日日曜日

日曜の昼前、お昼、昼後

今日の昼は外食しようとは決めていたが、さてどこにするかでなかなか行き先が決まらなかった。で、こんな時は「左膳」にしようって以前日記ネタにした(2021/6/27「そうだ「左膳」にしよう」→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2021/06/blog-post_27.html)ように、カールが「左膳にしよっか」で「ああいいよ」と決まって午前11時過ぎに家を出た。11時半ごろに着いたが、幸いさほど並んでおらずスムーズに店に入れた。

カールは冬季限定メニューと大きくメニュー用紙にあった「牡蠣天そば」を注文、私は定番の左膳定食にした。 

天ぷらとそばという日本人にはなじみの食材をほどよい値段で上品にまとめていてどの品をを頼んでもまずは裏切らない。今回も美味しかったです。私たちが帰るころは待合で客が並んでいた。

店を出てその足で与次郎の「ニトリ」に寄った。私は特に買うつもりのものはなく、カールが「足ポカクッションっての買いたい」とのことだ。何だそれ?

そろそろ寒くなるころで、椅子に座って下半身が寒い時にこれに足をツッコむといいらしい。1290円で2個購入した。
帰宅すると、駐車場から庭の枇杷の木にはたくさん実がついているのに気がついた。うわ〜、このままではまた小さな実ばかりになりそう。もう少し経ったら摘果やな。それでも実を残しすぎる癖があり、今回はちゃんと摘果して来年は大きな美味しい実を付けてもらいましょう。

2024年11月9日土曜日

インプラント

午前中、鹿児島中央駅近辺にある「薔薇」歯科に行った。実は3月に部分入れ歯にした左上の4番5番の歯の代わりにインプラントを入れてもらうことにしたのだ。インプラントって仕上がればほとんど日常の食生活で困ることはないし便利でいいのだが、いかんせん部分入れ歯と違って値段がお高い。3月は歯痛がひどく、とりあえずは部分入れ歯でもいいかなと思っていたが、毎日の取り外しがやや面倒なのと食感に違和感がやはり残り、カールが「お金かかっても今のうちにインプラントにしておいた方が絶対にいい」という強力なプッシュもあり、半年以上経ってようやく決断した次第。

薔薇歯科にしたのはインプラントを年間200例以上手がけているといういうし、姪っ子のアサちゃんが歯科医として勤務する歯科グループの医院ということもあってだ。最初にマネージャーのスロープライクさんという担当女性が問診を行った。それは普通に終わったが、彼女の自己紹介の紙があり、ちらほらと眺めると、「趣味」の欄に「韓国ドラマ鑑賞」というのが目に止まった。

「おおこれは」と韓ドラの話題を振ってみた。「私も韓ドラは大好きなんですが、何かこれはというお勧めのドラマは何かありますか」と尋ねた。すると、すぐには口に出て来ないようすだったので「じゃー、私から言いますと」とここは最近のドラマがいいだろうと、今年見たドラマの中でまずは一押しの「ほら、女主人公が夫や友人の裏切りにあって死んでしまうのだけどタイムスリップするドラマで・・」と言うと、「ああ『私の夫と結婚して』ですねー。いやー、私も今それを言おうとしたんですよ〜」と笑って答えてくれた。そして「他にも『涙の女王』がよかったです」とのこと。「涙の女王」は私は第1話の途中まで見てそれ以降を見ていない。しかし、大ヒットしたドラマで出ている役者もキム・スヒョンなど一流どころばかりだ。いずれ見ようとは思っていた。

その後、歯科衛生士の歯の診察や歯科医のレントゲン&CT撮影、そしてまた歯の写真撮影などあって、インプラントにあたっての治療法とどのくらいの治療費がかかるなど詳しい説明があった。それらを聞いていて最初にマネージャーに「今の御自分の歯を自己採点するとしたら何点くらい付けますか」に適当に「70点くらいかな」と答えていた自分が少し恥ずかしくなった。レントゲンなどで指摘される自分の歯を客観的に見れば50点もないのではないか。インプラントを考えている歯2本だけでなくまだいくつも治療が必要な歯があることに気づかされた。しかし、お値段を考えればまずは今一番困っている左上2本のインプラント治療を頼むことにした。

2時間以上かかって歯科医院を出たが、骨移植も必要になり合計の治療費は高いなあと思う。義歯で我慢すれば100分の1の値段で治療は終わるのに・・。いや、ここは値段を言っても仕方ない。日本では予防歯科が大事という考えがあまりにもなさ過ぎると歯科医院で言われたがもっともだと思う。今まで放置していた自分が悪いのだ。治療は来月受ける予約をした。全てが終わるまで半年以上かかるらしい。ふう、でも作ってしまえば今の不具合も解消されるはず。部部入れ歯を利用した期間とほぼいっしょだ。あっという間ぜよ〜。

2024年11月8日金曜日

佐伯鶴城出身とな

夕方の院長室、私はそろそろ帰宅の準備をしていた。するとトントン、ドアを叩き入室しようとする来客がいた。餅持ち製薬の新しいMRドチヌラド君だった。高尿酸の治療薬のアピールではあったが、それより彼が大分は佐伯鶴城(さいきかくじょう)高校出身ということで話が盛り上がった。というのも以前餅持ち製薬の担当であったハイソコMRが私に取り入る時に高校野球ネタを使ってうまくいった経緯があるからだ。ハイソコMRは京都出身で「高校野球談義をしたい」と言って来ただけのことはあった(→2018/8/20「ハイソコMRと高校野球談議」https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2018/08/mr.html)。ハイソコMRは私より少し年配だったはずだがまだ現役らしい。
その佐伯鶴城と言えば、高校野球ファンの私はすぐに「以前は時々甲子園に出ていたが最近はあまり聞かないなぁ」と言うと「ええ、でも今でも県予選ではベスト4とかには行くんです」とのことだった。「うん、同じ近くの津久見とかも昭和時代までは甲子園に出て優勝もしていたが、このところは別府の明豊がほとんどだな。大分南部のあのリアス海岸地域は21世紀になって全くと言っていいほど甲子園に出ていないわ」と言いつつ、佐伯鶴城をネットで検索してみた。甲子園には夏3回出場し1986年(昭和61年)にはベスト8にも進出した。最後は1996年(平成8年)で私の印象は間違っていなかった。

地図で見てみると佐伯市は津久見市の下にある。そうか臼杵市ともども小さな湾に出来た3つの市だと子どもの頃に地図を見て覚えたが、上から臼杵、津久見、佐伯だったか、順番はあやふやだったのが今回の確認ではっきり覚えたぞ。
ドチヌラドMRに「でもさー、この大分南部の海岸都市だけどこれまで一度も訪れたことが無いんだ。鹿児島からだと別府や大分くらいまでは行くことはあるけれどそこまではなかなか行くことはないし、しかも陸路だと遠いんだよ。宮崎からではせいぜい延岡まででそこから上の大分までは行くことがない。一生のうち一度も行く機会はないかもしれない」とその遠距離ぶりを話題にした。「確かにそうです」と同意するドチヌラドMR。鹿児島に行く時も列車で北九州から大回りで来るんだそうだ。ほう。

調べると、東九州自動車道は大分から宮崎まではつながっていた。その気になれば車で行ける。昨年7月に日向市まではカールとドライブしたんだった(2023/7/16「日向へ初ドライブ」https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2023/07/blog-post_16.html)。
岩牡蠣料理も食べたのか。いわゆるリアス海岸地域ゆえに名物料理になっていた。そんなこんなで会話に花が咲き、帰りはちょいと遅くなってしまった。

しかし何はともあれ、ドチヌラドMRは大分、佐伯鶴城という地理的記憶とともに私の印象に残ることに成功したのだった。

2024年11月7日木曜日

ハナビの効用

朝夕が寒くなった。今夜はこの秋初めてガス暖房を入れたよ。でもさー、つい2日ほど前の日中はエアコンで冷房にしていたんだよ。さっき「秋」って書いたけど、最近は秋がない。あっという間に夏から冬だぁ。

夕食の後、ハナビがテーブルに上がって私のノートパソコンの前に来てお邪魔しに来た。甘えるように寝そべるので、顎やら額やらをなでなでしてあげると実に気持ちよさそうにする。

そのうちハナビは自分の手や指をちゅぱちゅぱし始めた。母親がどんなネコかは知らないが乳離れが上手く出来なかったんだろうねぇ。↓私も真似してみた。
私はパソコンが使えず少し困ったが、しばらくはハナビのするがままにさせた。そのうちパッと飛び降りて、今度はゲンちゃんがくつろいでいるソファに上がった。ゲンちゃん、何だよとにらみつける↓。
しばらく緊張が続いてにらみ合いだ。
にらみ合いがそのまま続いて、もしや取っ組み合いか?と思われたが、カールが「ハナビ!だめよ。ゲンちゃんに何かしたら許さないわよ、ママはゲンちゃんファーストなんだから」と、おらおらとハナビを居間から廊下に追い出した。

まだまだ平和な二匹の関係にはなれそうにないね。でも子どもたちがすでに家にはいなくなり、ハナビ以外はみな還暦を過ぎている(ゲンちゃんも14歳で人間に直したら還暦はゆうに過ぎている)。ハナビが家の中を暴れ回ってくれ、なにやら若さを感じる秋のこてる家であった。

2024年11月6日水曜日

わざと出血させて憩室出血を止める

さて、昨日のタクミDrの大腸憩室出血患者だが、今朝も新鮮下血があったというから「絶対出血源見つけたる」と意気込んだ。そもそも今日は内視鏡担当ではないけれど、夕方の外来を止めて検査に向かった。S状結腸から出血しているのは分かっている。2、30個もあるS状結腸憩室の中から出血源の露出血管を探した。送水を繰り返し憩室の奥に血管がないか探すんだ。

そんな中、チラッと見えたわずかに色調の違う粘膜部分があった。「おや?」とスコープを近づけてみる。↓大きさは1mmもない0.5mm程度のわずかに赤と白の所見だ。写真を見てもほとんどの人はどこが出血源か分からないだろう。
かなり分かりづらいので送水して鉗子で押さえ、拡大して観察する。どこが出血源か?
目印を付けて露出血管を示す。ピンク丸がそれだ↓。その目で見ないとまず見過ごす。
憩室の出血源たる露出血管にはいろいろなパターン、形があり、上の写真のようなものはやや少なく、もっとはっきりした形の血管のことが多い。この場合、本当に出血源かを確かめる必要があると思い、出血させてもいいやぐらいの気持ちでこの後鉗子で突いた。すると・・。
ウヒャー!やっぱり出てきよった。出血源間違いなし。私はわざと出血させたのである。最初の写真だけでは専門のドクターでも「本当に出血源か?」と確信が持てない人はいっぱいいるはず。しかしこの写真を見れば出血源と納得出来る。私は出血は怖れない。むしろ「やった!」と喜ぶくらいなんだ。実はこの前の学会で憩室出血を発表していた先生が、動画を出して私と同じように鉗子で突いて探っているのを見て意を強くした。出血憩室にマークリップを掛け、その後結紮ゴムで吸引結紮(EBLという)をして止血しいっちょ上がりだ。
止血出来上がり図は小さな果実が腸管に出来たようになる。
数日以内に絞扼された腸管粘膜は壊死してゴムもクリップも外れる。その後潰瘍化した粘膜はやがて瘢痕化し憩室もろとも消失する。

先月から続いた憩室出血は出血源止血2勝2敗だった。これでも全国平均(止血率2〜3割)よりは高い。わざと出血させて出血源を確定するというのは私がちょくちょくやる憩室止血法の一つだ。多くの先生方が「憩室の出血源はどうせ見つけられない。何もしなくても自然止血率が7割くらいあるからそれでよい」と傍観気味なのはどうなんかねぇ。いったん止まって退院してもまた再発してやって来る患者が多いから私は出来るだけ粘って止血に力を注ぐ。この10年、憩室出血の止血法に血道を上げ、今日みたいにうまく行くとまたやる気も出てくる。もうライフワークやっ!

2024年11月5日火曜日

「退会」欄で偲ぶ

久々に病院で仕事して、受け持ち患者が病状悪化していないか気になっていたが、下血していた患者はみんな出血が止まっていたし、悪化の人も少なくてほとんどいなくてよかった。ところがー。タクミDrから「この前、下血で入院させた患者なんですがー」と大腸憩室出血疑いの男性患者の大腸内視鏡を頼まれた。うわ、この2週間で何人目の大腸憩室出血よ。で、夕方検査したが、案の定出血源は見つからなかった。S状結腸に憩室多発ありそこからとは分かったが特定するのは難しい。しかしこの患者さん、数年前に2回目の内視鏡で出血源を突き止め止血処置をしている、今回も1回であきらめる私ではない。しばらく絶食点滴で我慢してもらい今度出血したら絶対見つけてやるぅ。

11月号の鹿児島県医師会報を眺めていたら、「退会」欄に二人知っている先生がいた。一人は枕崎の病院の大御所だった街一先生で、直接話をしたことはないが、鹿大第一外科出身で可愛いんだ理事長の先輩にもあたり青雲会病院の忘年会に毎年来られていてお顔は知っていた。もう一人は人藤斎先生で、9月4日に亡くなられていた。人藤斎先生は循環器が専門で出身科も違うが、学生時代にバスケ部のコーチをしてくれたことがありお世話になった。それとは別に、そのころの私は自分が医師を目指す意味が持てない頃で、先生に正直に「医師という仕事にあまり意欲も興味もない」ということを口走ったことがあった。すると先生は「何を言っている。医師という職業は自分がちょっと頑張ればすぐに患者さんに反映されて結果が出るもんなんだ。それって他の職業よりずっとやりがいの持てるいい職業なんだよ」と諭された。それは非常に印象に残っていて「なるほどそうか」と納得したのだった。

出水のスチョル先生は大学病院時代に人藤斎先生が直接の指導医とのことで、最近呼ばれて自宅までお見舞いに行ったんだそうだ。末期の病気で「もう助からない」と言われたんだとか。私が医師になり大学病院ですれ違った時には「おお、こてる君」といつも声をかけてもらっていた。確かまだ70歳前半くらいでだったはずだが残念だ。ご冥福をお祈りいたします。

2024年11月4日月曜日

昔懐かし「峠の釜めし」

新幹線で鹿児島中央駅に降りて、すぐに駐車場へは向かわず、お土産横丁に寄った。病院へのお土産を買うためだ。鹿児島以外で学会があったのになぜに鹿児島で買う?それはちゃんとした理由があるが、そもそ荷物になりがちなお土産はあまり持ち歩きたくない。鹿児島で買えば持ち運ぶ手間が省ける。たださすがに選ぶ時はありきたりなのが多くて困った。で、私が食べたことのない安納芋ランドグシャ「さつまがさね」というのを選んでみた。人気No1とも書かれてあった。これを各病棟や外来、人間ドック、他などへ贈るのに都合1万円をゆうに越えたが、多少なりとも迷惑を掛けたのでこれくらいは仕方ないね。

一旦帰宅してから病院に寄って各部署にお土産を配った。そして今度は空港へ。ココちゃんへのおひな様人形を買って上げに千葉に行って帰って来たカールを迎えるためだ。車に乗せて「夕食はどこか外で食べようか」とカールに言うと「それがねー」と彼女は声を落とした。実は銀座に売っていた「峠の釜飯」を夕食用に2人分買っていたのだそう。しかし、購入後トイレで落としてしまって1個釜を割ってしまったんだと。カールは昔埼玉に住んでいて「軽井沢に行った時に横川という駅で友人が『ここの釜飯って絶対美味しいよ、買おう』と言われたの。最初は駅弁なんてと思ったけど食べたらホントに美味しかった」という思い出があり、最近NHKのローカル線の番組でも出ていて懐かしく思っていて買ったんだという。今は横川駅に列車も止まらず駅では買えないらしい。へーえ。

帰宅して改めて開けたら、やっぱり釜が割れてご飯にちょっと破片が混じってしまっていた。それでもどうにか食べられた。昔ながらのオリジナル商品だという。

カールの青春時代を私も疑似体験しつつ、釜飯を美味しく食べたのだった。残った釜はまた再利用で一合飯を炊くことも出来るとか。ありがたや〜。